集合的無意識と共時性 ーユングの著作を中心にー


Carl G. Jung 1875-1961
「神を信じますか?」と聞かれたユングは「信じる必要はありません。知っています」と答えた[*1]

星の王子さまは「大切なものは、目には見えない[*2]」と言っているが、カール・グスタフユング(Carl Gustav Jung: 1875〜1961)は、大切なものを目で見てしまう人であったらしい。彼の生涯と業績の時代背景については、「『心霊研究』と『超心理学』の科学史」も併せて参照のこと。

個人的無意識と集合的無意識

人間の心の構造は、しばしば氷山にたとえられる。自分で意識できるのはごく一部で、ほとんどは水面下にあって、意識されない。

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『自我とエス』(1923年)で提出されたフロイトによる意識と無意識の概念図[*3]

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『続・精神分析入門講義』(1933年)で提出された改訂版。超自我(Über-Ich)が書き加えられている[*4]

フロイト精神分析では、無意識の欲動(Trieb)の出所であるエス(Es)[*5]と、父親のように、社会的規範によって欲動をコントロールしようとする超自我(Über-Ich)が対立し、葛藤しており、自我(Ich)[*6]がその二つの間の調停を行う役割を担っている、というモデルが基本にある。

なお、前意識(Vorbewußte)とは、意識と無意識の間にあって、思い出そうとすればすぐに思い出せる無意識の領域であり、verdrängtとは、抑圧されたもののことである。

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ユングによる意識と無意識の概念図[*7]

フロイトは個人の発達の過程、とくに幼少時における両親との関係を重視し、無意識(Unbewußte)はその過程において意識下に抑圧・忘却されていったものとみなした[*8]

それに対し、ユングは、フロイトが想定するような無意識(個人的無意識 Persönliche Unbewußte)のさらに深層に、集合的無意識(Kollektives Unbewußtes)という層を仮定した。

集合的無意識は、二通りに解釈できる。初期のユングは、集合的無意識とは、個人ではなく、人類、あるいは他の動物が進化の過程で遺伝的に刻み込まれてきた記憶であると考えた[*9]

ユングは「集合的無意識とは心全体の中で、個人的体験に由来するのではなくしたがって個人的に獲得されたものではないという否定の形で、個人的無意識から区別されうる部分のことである。」「集合的無意識の内容は」「もっぱら遺伝によって存在している」[*10] と定義している。

しかし、その後、ユングはインドや中国の伝統的な霊魂観にも関心を抱くようになっていく。インドでは霊魂は輪廻転生を繰り返すという死生観が発達してきた。これは、個人を超えた普遍的な精神の一部として個々の意識が発生し、死ぬとそこに戻っていくという点で、集合的無意識の概念とも似ているところがある。インド文化圏でしばしば語られる前世や過去生の記憶と、西洋近代の力動的な精神医学が開発した催眠という技法との間にも並行関係がある。

元型

蛇のように、集合的無意識に共有されている象徴的イメージを、元型(Archetypen)という。元型は、文化的交流がないはずの世界各地の神話や芸術に共通して現れると同時に、精神病(とくに統合失調症)の幻覚・妄想にも出現する。獲得形質が否定され、ネオ・ダーウィニズムが進化の総合学説として構築されていったのが1930年代であるが、たとえば蛇を怖がらない遺伝子が淘汰された結果、蛇に特別な畏れを抱く「元型」が進化の過程で形成された、と考えることができる。

内なる異性像、つまり内なる女性(anima)/内なる男性(animus)、大母(Große Mutter / great mother / グレートマザー)、あるいは成人せず大母の子宮という「容器」の中で遊び続ける永遠の少年(puer aeternus)などが代表的な元型である。心の全体性を象徴するマンダラも、元型の抽象的な形態だと考えることができる。

ヘビは、その形態や、攻撃してくるという特徴から、フロイト精神分析では男根(phallus)の象徴とされるが、多くの民族では地母神として信仰の対象となっている。とりわけ自らの尻尾を加えているヘビの姿、ウロボロス(ouroboros)は、マンダラのように、精神が個別の領域に分化する以前の全体性を象徴しているとも考えられる。


映画『彷徨える河』予告編
コロンビア映画『彷徨える河』の予告編。原題は『El Abrazo de la Serpiente(母蛇の抱擁)』。アマゾンでは「mama」と呼ばれる地母神=蛇が崇拝されている。(→「アマゾンのシャーマニズム」)

ユングは『元型論』の冒頭でひとつの症例に言及している。

妄想型統合失調症が慢性化し長年入院している男性患者のことである。彼は自分を神でありキリストであると考えていた。といって実際には特別な才能を持っていたわけでも、特別な教育を受けたわけでもない。一方のユングもこのころはまだ神話学や考古学を学んでいたわけではなかった。

ある日私が彼に出会ったとき、彼は窓ぎわに立って、頭を左右に動かしながら目を細めて太陽を見つめていた。彼は私に同じようにしてごらん、そうすればたいへん面白いものが見えると言った。何が見えるのかと尋ねると、私には何も見えないことに彼はびっくりして、こう言った。「太陽のペニスが見えるでしょうが。私が頭を左右に動かすと、それも同じように動くんだよ。そしてそれが風の原因なんです」。もちろん私はその特異な観念を少しも理解できなかったが、しかしそれをしっかりと書きとめておいた。
 
ユング『元型論』[*11]

 ユングはその4年後に翻訳され出版されたミトラ教の儀典書に彼が語ったのと似た記述を見つける。そこには、特別な修行をした者だけが見ることができるというビジョンについて書かれていた。太陽から筒が垂れ下がっていて、西の方向を向けば東風が起こり、東の方向を向けば西風が起こる、というのである[*12]

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ユングが精神的な危機に陥ったときに自らが描いたマンダラ[*13][*14]

共時性

やがてユングは、集合的無意識を、現在生きている人間どうしの間での無意識的で、因果関係を超えたつながりであると考えるようになる。それにともなって、共時性(Synchronizität / synchronicty: シンクロニシティ)という概念が提唱される。布置(Konstellation / constellation:コンステレーションとカタカナ表記されることもあるが、もともとは星の集まり、つまり「星座」という意味である。

本来ならば、ここで扱うことになる概念の定義をすることから話を始めるのが、適切なのかもしれない。しかし、ここではむしろ逆の道を辿ることにして、まず最初に、共時性という概念のもとに総括すべきであるような事実を挙げてみたいと思う。この用語は、その字義からもわかるように、時間、あるいは一種の同時性に関係している。後者の表現の代わりに、二つの出来事やいくつかの出来事の間の意味ある符合という概念を用いることもできる。この概念の意味していることは、偶然の確率とは異なっている。偶然とは、統計的なもの、すなわち出来事の確率上の重なりのことで、病院でよく知られている「同じ症例の重なり」が、この例である。

このような出来事の重なりは、確率と合理的な可能性の枠をはみ出さないで、いくつもの連続を生み出し、時には多くの連鎖を成すことがある。たとえば、誰かが偶然に自分の市電の番号に気を留めることがある。家に戻ってみると、その切符の番号と同じ電話番号を持っている人から電話がかかってくる。夕方に劇場の切符を買ってみると、それが再び同じ番号であったりする。この三つの出来事が形成している偶然の重なりは、確かにそう頻繁に生じるものではないけれども、それぞれの要素の頻度から見れば、それでもまだまったく確率の枠内に属している。

筆者自身の経験から、六つもの要素から成る、以下のような偶然の連なりを報告してみたいと思う。一九四九年四月一日の午前に、上半身が人間で下半身が魚である像のことを扱っている碑文をノートに取った。昼食には魚が出てきて、誰かが「四月魚」〔エイプリル・フールのこと〕の風習について触れた。午後に、何箇月も会っていなかった昔の患者さんが、印象的な魚の絵をいくつか見せてくれた。夜に、ある人が海の怪物と魚を描いてある刺繍を見せてくれた。翌日の早朝に、昔の患者さんが十年ぶりに尋ねて来た。その女の人は、前日の夜に大きな魚の夢を見たのである。その後何箇月か経って、この一連の出来事のことをある比較的大きな論文の中で取り上げて、その部分を書き終えてすぐに、自宅の前の湖岸の、かの早朝に何回も通りかかった所にやってきた。今度は、足裏ぐらいの長さの魚が岸壁にのっていた。誰もそこにいたはずがないので、魚がどうしてそこにやって来たのか見当もっかないことである。これほども偶然の一致が重なると、そのことに印象づけられずにはいられなくなるであろう。なぜならば、そのような出来事の連鎖が長く続けば続くほど、そして出来事の内容が普通でないものであればあるほど、統計上の確率は小さくなるからである。ここでは詳しく論じないが、別の所で述べた理由から、この場合でも生じたのは偶然の連なりであると筆者は考えている。しかしながら、単なる重なりとは思えにくいということも確かである。

 
ユング共時性について」[*15]

ユング共時性について考えるようになった背景には、ラインによるESP実験の影響が強く認められる。

J・B・ラインが、超感覚的知覚(ESP)についての実験で、信頼のできる基礎を築いて大きな功績を挙げた。彼は、その実験に五枚ずつ同じ印の付いている(星、四角、円、十字、二つの波線)二五枚のカードからなるセットを用いた。実験手続きは次のようである。どの実験シリーズにおいても、カードのセットは、被験者に見えないようにして、八〇〇回取り出され、被験者には、その取り出されたカードを言い当てる課題が与えられた。当たる確率は五分の一である。非常に多くの試行に基づいて平均して6.5枚的中するという結果が出た。的中期待値五枚から1.5という偶然の偏差が生じる確率は、1 : 250000しかない。何人かの人は、二倍以上の的中値を記録し、一度は、二五枚のカードすべてが正しく言い当てられることさえあった。これは1:289023223876953125の確率に相当する。実験者と被験者との間の距離を数メートルから四千マイルに広げても、結果に影響は現われなかった[*16]
 
ラインの実験において、エネルギー保存の法則は適用できないことがわかる。これによって、力の伝達という観念がまったく通用しないことになる。同様にして因果律も妥当しなくなる。このことは、筆者が既に三〇年前に示唆していたことである。つまり、未来の出来事がいかにして現在の出来事に影響を与えることができるのかは、想像もつかないことなのである。今のところいかなる因果的な説明の可能性もないので、思いもつかない偶然、あるいは非因果的な性質をもった意味のある符合が生じたと、暫定的にみなすしかないのである。

 
ユング共時性について」[*17]

ユングは、J・B・ラインに宛てた書簡の中で、次のように述べている。「超感覚的知覚は『集合的無意識』として現出します。この特殊な『たましい』はあたかもそれが『ひとつ』であるかのように振る舞い、けっして多くの個人に分裂するかのようには振る舞うことはありません。それは『非個人的』なものなのです。」「そしてそれが個人に限定されないということは、同時にそれが肉体にも限定されてはいないということです。したがってそれは人間において現出するのみならず、同時に動物であっても、また物理的場においても、それは出現するということです。」 [*18]

古典力学量子力学

ユング共時性の概念を発展させていたころは、また物理学の分野では古典力学から量子力学へとパラダイムシフトが起こった時期でもあった。

量子力学創始者の一人である物理学者、ヴォルフガング・パウリとの交流[*19]を通じてもユングは独自の理論を発展させていった。

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ユングがパウリに宛てた書簡(1950年11月30日)に記した、因果性と共時性の概念図[*20]

古典力学の基礎には、因果律(causality)つまり原因があって結果があるという基本的な概念があるが、奇妙なことに、量子力学では必ずしも因果律が成り立たない(ように見える)。たとえば量子エンタングルメント(quantum entanglement)という現象では、遠く離れた二つの素粒子が、なんの相互作用も介さずに同時的にふるまう。量子エンタングルメントはたんなる連関であって、片方の粒子から他方の粒子にエネルギーが伝わることはないし、情報も伝わらない。しかし、物理現象ではなく生命現象においては、量子エンタングルメントとESPや共時性との間に関係があるのではないか、という議論は今でも続いている[*21]。ESPといえば相互作用だが、共時性といえば偶然なので、通常の物理的相互作用よりは、エンタングルメントという因果関係のない現象のほうに親和性がある。しかし、それは象徴的な比喩に過ぎないのかもしれない。

晩年になってフロイトはテレパシーのような現象が存在するかもしれないということは認めるようになったが、それは因果性にもとづく生物学的なコミュニケーションだという手堅い仮説を提唱する一方、現代物理学の不可思議さを神秘主義と混同することに対しては警鐘を鳴らしている(→「フロイトのテレパシー論」)。

現代物理学における心物問題について議論すると長くなるが、別途「物理学は『超常現象』をどのように扱いうるか?」に試論を述べておいた。

布置/星座

ユングは「共時性ー非因果的連関の原理−」[*22]の中で、結婚した夫婦の星座の組合せを、占星術的な観点から、統計的に分析している。その統計的な分析は充分なものとはいえない。ユング派の心理占星術は、こうした考えを受け継いでいる。

しかも、ユング自身の思考には揺らぎがある。たくさんの人数を集めて統計的に分析する三人称的な視点と、一人ひとりの人間が出会うことの一人称的・二人称的な意味は、次元の違う問題だからである。

個人と個人の出会いは一期一会であり、星の並びと同様、物理現象としては偶然である。しかし、その偶然に意味が付与されたとき、布置/星座(Konstellation / constellation)という、意味のある形態が立ち現れる。

西洋近代的な一夫一妻婚は、主体的な個人としての男性と、主体的な個人としての女性が、自由意志によって夫婦となるという観念として完成されたかのようにみえるが、じっさいには無意識の領域で、アニマとアニムスという象徴的な元型が相補的に作用しているのである。それが自我のレベルでは、主体が意識的に選択を行っていると経験される。

南米の先住民族の神話の構造分析を行ったレヴィ=ストロースの『神話論理』の比喩を借りれば、星座(Konstellation / constellation)の中で人間が動いているのではなく、人間の中で布置(Konstellation / constellation)が―当人にも意識されずに―動いている[*23]のである。

臨床の知

いっぽう、共時性に物理的な根拠があるかどうかは別にして、それが「意味」の問題であることは間違いない。以下も、ユングが紹介している症例である。患者は、ある知的で合理主義的な考えを持つ女性であった。

ある日、窓を背にして彼女の前に坐って、彼女の雄弁ぶりに聞き耳を立てていたのである。
 
その前夜に、彼女は、誰かに金色のスカラベ(非常に高価な装飾品)を贈られるという、非常に印象深い夢を見たのであった。彼女がまだこの夢を語り終えるか終えないうちに、何かが窓をたたいているかのような音がした。振り返って見てみると、かなり大きな昆虫が飛んできて、外から窓ガラスにぶつかり、どう見ても暗い部屋の中に入ろうとしているところであった。
 
こんなに不思議なことはないと思ったので、筆者はすぐに窓を開けて、中に飛び込んできた虫を空中で捕まえた。それは、よく見かけるバラコガネムシで、緑金色をしているので金色のスカラベに最も近いものであった。「これがあなたのスカラベですよ」と言って、筆者は患者さんにコガネムシを手渡した。
  
この出来事のせいで、彼女の合理主義に待ちわびていた穴があき、彼女の理知的な抵抗の氷が砕けたのであった。その後は、治療はうまく続けられることができた。

 
ユング共時性について」[*24]

このような臨床場面では、「夢の世界」と「現実の世界」の間に物理的、因果的な対応関係があるかどうかは問題ではない。コガネムシ古代エジプトで神聖視されていた昆虫であるが、患者はそのことを知っていたわけではない。コガネムシの出現は偶然だったかもしれないが、その出来事が患者にとって意味のある一致(meaningful coincidence)として体験でき、それが治療に役立てばよいのである。それが「非因果的連関(acausal connection)」であり[*25]、つまり共時性である。

これは、普遍的な法則性を明らかにしようとする「科学の知」とは次元の異なる、その一期一会の状況で起こることに治療的な意味のある「臨床の知」[*26]とでもいうべき意味の領域である。

付記:ユングの著作とその和訳・解説

ユングの著作は『Der Psychologische Club Zürich』にリストアップされている。

和訳については、フロイト全集のような包括的な全集はまだなく、日本教文社の『ユング著作集』や人文書院の『ユング・コレクション』などが選集として出版されている。

ユングの著作を和訳し、解説してきた先駆者は河合隼雄だった。


河合隼雄 「コンステレーションについて」
河合隼雄・最終講義「コンステレーションについて」(1992年3月14日、京都大学教育学部

河合隼雄自身の著作集も編纂が続けられているが、その上方落語のような「芸風」は、紙媒体だけでは伝えることはできない。講演を録音したCDも出版されているが、いちばんいいのは画像つきの動画で味わうことであろう。

河合の独特の解釈に対し、文献学的に忠実な翻訳を目指したのは林義道である。福島哲夫は一般向けの解説書を出しており、一見、軽薄そうではあるが、日本の紹介者たちが扱いかねてきたオカルト的なテーマの解釈にもつとめている。さらに、超心理学とのかかわりについては、湯浅泰雄が翻訳を進めた。



CE2019/05/23 JST 作成
CE2021/06/17 JST 最終更新
蛭川立

 

*1:1959年、BBC Face to Face によるインタビュー映像。公共性の高い映像なので、YouTubeにアップされた映像にそのままリンクを張っている。このインタビューを含むドキュメンタリーとしては、Carl Jung:The Wisdom of DreamやThe Story of Carl Gustav Jung.などがある。

*2:L'essentiel est invisible pour les yeux.
サン=テグジュペリ, A. 小島俊明(訳)(2006).『対訳 フランス語で読もう「星の王子さま」』第三書房. (Saint-Exupéry, A. (1943). Le Petit Prince. Reynal and Hitchcock.)

*3:Freud, S. (1923/2000). Das Ich und das Es. Im Das Ich und Das Es: Metapsychologische Schriften. Fischer Taschenbuch Verlag, 253-295.

*4:Freud, S. (1933/2005). Neue Folge der Vorlesungen zur Einführung in die Psychoanalyse. Im Neue Folge der Vorlesungen zur Einführung in die Psychoanalyse. Fischer Taschenbuch Verlag, 9-177. (フロイト, S. 道旗泰三(訳)(2011).「続・精神分析入門講義」『フロイト全集21』岩波書店、2-240.)

*5:直訳すれば「それ」という意味ではあるが、ラテン語で「イド(id)」と訳されることもある。この「Es」は、ニーチェAlso Sprach Zarathustraからの借用である。ニーチェは、無意識の力強い生命力という意味で使っているが、フロイトは、むしろ自己をおびやかす暗い衝動という意味で使っている。

*6:直訳すれば「私」であるが、ラテン語で「エゴ(ego)」と訳されることもある。

*7:ユング自身は自身の概念の明確な図式化をしなかった。この図は蛭川の解釈。

*8:後に「幼少時に父親から性的な虐待を受けた」といった「記憶」が、本人、あるいは治療者が作り出した「偽記憶(false memory)」であることが多いことが明らかになっていったが、それもまた当事者にとっては現実の体験と同様に経験される「心的現実(psychic reality)と呼ばれるようになる。

*9:河合隼雄は、集合的無意識のこのような側面を強調して「普遍的無意識」という日本語訳をあてている。

*10:ユング, C. G. 林道義(訳)(1999).『元型論』紀伊国屋書店, 11-25. (Jung, C. G. (1921). Psychologische Typen. Rascher & Cie.)

*11:前掲書, 22.

*12:前掲書

*13:ユング, C. G. 河合俊雄(監訳)・ソヌ・シャムダサーニ(編集)・田中康裕・猪俣剛・高月玲子(訳)(2010).『赤の書―The Red Book―』創元社. (Jung, C. G., Shamdasani, S. (Hrsg.), Hermes, C. (Übers.) (2013). Das Rote Buch. Patmos Verlag.)

Amazon.co.jpにサンプルとしてアップされている画像。

*14:蛭川が睡眠障害国立精神・神経医療研究センター病院に入院していたときに、毎日、食堂の一角の同じ席で、ずっと「マンダラ塗り絵」を塗り続けている、おそらく統合失調症かと思われる中年女性患者と近しくなった。なぜマンダラばかり描いているのか、と尋ねると、彼女は、質問の意味がわからない、といった具合だった。それでも私がしつこく質問すると、彼女はやはり怪訝そうに「暇だから・・・」と答えていたのを思い出す。

*15:ユング, C. G. 河合俊雄(訳)(1991).「共時性について」エラノス会議(編集)・井筒俊彦上田閑照河合隼雄(日本語版監修)・山内貞男・森哲郎・松田高志・氏原寛・河合俊雄(訳)『時の現象学Ⅱ』平凡社, 286-287.

*16:距離が遠いほうがヒット率が下がるという研究もある。もしそうなら、ユングのいう共時性の概念は当てはまらない。

*17:前掲書, 290-291.

*18:ユング, C. G. 湯浅康雄(訳)(1999). 「ラインの質問に対する解答、1954年11月」『ユング超心理学書簡』白亜書房, 43-89.

*19:ユング, C. G., パウリ, W. 河合隼雄(訳)(1976).『自然現象と心の構造―非因果的連関の原理―』海鳴社. (Jung, C. G. & Pauli, W. (1955). The Interpretation of Nature and the Psyche. Random House.

パウリ, W., ユング, C. G. 湯浅泰雄・黒木幹夫・渡辺学(監修)・太田恵・越智秀一・黒木幹夫・定方昭夫・渡辺学・高橋豊(訳)(2018).『パウリ=ユング往復書簡集 1932─1958』ビイング・ネット・プレス. ユング, C. G. 池田紘一鎌田道生(訳)(1976).『心理学と錬金術Ⅰ』人文書院. (Jung, C. G. (1944). Psychologie und Alchemie. Zürich Rascher. ) ユング, C. G. 池田紘一鎌田道生(訳)(1976).『心理学と錬金術Ⅱ』人文書院. (Jung, C. G. (1944). Psychologie und Alchemie. Zürich Rascher. )

*20:Maier, C. A. (Herausgegeben) (1992). Wolfgang Pauli und C. G. Jung: Ein Briefweichsel 1932-1958. Springer-Verlag, 61.

*21:

*22:ユング, C. G., パウリ, W. 河合隼雄(訳)(1976).『自然現象と心の構造―非因果的連関の原理―』海鳴社. (Jung, C. G. & Pauli, W. (1955). The Interpretation of Nature and the Psyche. Random House.

*23:蛭川立 (2011). 「共時性のコスモロジー ー記号/宮(シーニュ)と布置/星座(コンステレーション)再考ー」『トランスパーソナル心理学/精神医学』11, 44-47.

*24:ユング, C. G. 河合俊雄(訳)(1991).「共時性について」エラノス会議(編集)・井筒俊彦上田閑照河合隼雄(日本語版監修)・山内貞男・森哲郎・松田高志・氏原寛・河合俊雄(訳)『時の現象学Ⅱ』平凡社, 294.

*25:ユング, C. G., パウリ, W. 河合隼雄(訳)(1976).『自然現象と心の構造―非因果的連関の原理―』海鳴社, 12頁. (Jung, C. G. & Pauli, W. (1955). The Interpretation of Nature and the Psyche. Random House.

*26:中村雄二郎 (1992).『臨床の知とは何か』岩波書店.