【資料】フロイトのテレパシー論

いとしいマルタ
 
ぼくたちのあいだに働いているテレパシー的共感のせいで君は聖霊降臨節をぼくよりもたのしくは過ごさなかったようだね、もしそうだとしたらそれは非常に困ったことだ。(後略)

 
マルタ・ベルナイス宛書簡(1885年5月26日)

恋文の中での戯れは別にすれば、フロイトが初めてテレパシーについて言及したのは、1921年に執筆された「精神分析とテレパシー(Psychoanalyse und Telepathie)」においてである。

いわゆるオカルト事象の研究を、もはや拒否するわけにはまいらないようです。オカルト事象とは、いわれるところでは、誰もが知っている人間や動物の心以外に心的な力が現実に存在することを保証したり、あるいは人間や動物の心にもこれまで思ってもみなかったような能力があることを暴露したりする事象のことです。こうしたこと についての研究趨勢には抗いようもなく強力なものがあるようです。いまの短い休暇の間にわたしは、オカルト研究のために新たに創刊された雑誌へ協力を求められ、お断りするということが三度ありました。この潮流がどこか ら力を得ているのか、それもわかります。それは、大戦によって世界が破局を迎えて以来、現存するあらゆるもの を襲った価値喪失の表現でもありますし、われわれに迫っている、未曾有の規模の大変革を手探りしようとするこ との一端なのです。むろん、この世の生が失った魅惑を、他の超地上的な――領域で手に入れようとする補償の試みでもあります。実際、厳密科学におけるかなりの数の出来事もこうした展開に好都合だったようにも考えられます。ラジウムの発見は物理世界の説明可能性を大いに拡張もすれば混乱させもしましたし、つい先ごろ獲得されたいわゆる相対性理論の知見は、よく知りもしないで驚嘆している多くの人に、科学の客観性への信頼を揺るが せるという結果をもたらしました。
 
精神分析とテレパシー」(289-290.)

すくなくともこの時点では、フロイトはテレパシーの存在自体は認めるにやぶさかではないと考えていたようである。ただし、量子力学相対性理論のような現代物理学を神秘化し、オカルト現象と混同することについては警鐘を鳴らしている。これは、量子力学の神秘的な側面に魅せられていったユングに対する批判とも読める。

ただし、この「精神分析とテレパシー」が公刊されたのは1941年、フロイトの死後の2年後であり、生前に公表されたものとしては、1922年の「夢とテレパシー」が最初である。そこでは、テレパシー夢と解釈することもできる、フロイト自身の夢が公表されている。

わたしは戦争中一度、前線に赴いていたわたしの息子の一人が斃(たお)れた夢を見たことがあります。夢はそ れを直接告げているのではないのですが、けれど見間違えようなく、夢はそのことを、W・シュテーケルが最初に 言明した、周知の死の象徴法を手段として表現したのです(文献上良心的であれ!というわずらわしく感じられることも多い義務をここで忽(ゆるが)せにしないようにしましょう)。わたしは、上陸用桟橋のもとに、陸地と水との境界に、 若い兵士が立っているのを見ました。とても青ざめた風情で、話し掛けてみましたが、返事はありませんでした。 かてて加えて、それ以外にも誤解しようのない暗示がありました。息子は軍服ではなく、スキー服を着用していま した。それは戦争の何年か前、息子が重いスキー事故を起こしたときに着ていたものです。息子は足台のようなも のに上って、一つの箱を前にしていました。この情況はわたし自身の幼年期の想い出との関連で「たおれる」という解釈をさせずにはおきませんでした。というのも、わたしは二歳を少し越えたころ、同じような足台に上って箱 の中からなにかを―おそらくなにか良い物を取ろうとして転倒し、怪我をしたことがあるからです。その傷跡は今日でも示すことができます。あの夢によって死を告げられたわたしの息子は、しかし、戦争の危難から無事に帰還しました。
 
「夢とテレパシー」(312.)

そして、それがテレパシーの存在を主張するものでもない、という慎重な断り書きも添えられている。

このような報告は無価値だ、なぜなら否定的経験は、他のより非オカルト的な領域に劣らず、この場合において もなにかの証明にはなりえないからだ、と異議を申し立てて、どうかわたしの話を中断させないでください。わたし自身そのことは承知していますし、これらの事例を持ち出したのも、なにかを証明したりあるいは特定の態度を 皆さんにこっそり押しつけようと意図するからでは決してないのです。
 
「夢とテレパシー」(313.)

そしてこの文章の直前には、もしテレパシーが存在するのならば、それは無意識の働きとして問題なく説明できるという見解が表明されている。

テレパシーと夢との間には密接な関係があるとみなされる理由のうちまだ残っているのは、テレパシーは睡眠状態によって間違いなく助長されるということです。もっとも、嘔眠状態はテレパシー的な出来事が起こるための不 可避の条件ではありません――出来事がお告げに基づいているにせよ、あるいは無意識的な所作に基づいているにせよ。(中略)テレパシー的なお告げについては、それが事件と同時に入ってきているのだが、ただ次の夜の睡眠状態になってはじめて ーーあるいは、目が 覚めているときでも、しばらくして精神の能動的活動が休止したときになってはじめてーー意識によって知覚され るということは、十分に考えられるからです。われわれはまた、夢の形成についても必ずしも睡眠状態の開始を待って始まるわけではない、と考えています。潜在的夢思考ももしかしたら、しばしば日中ずっと準備されていて、 それが夜になると無意識的な欲望に接続され、その欲望によって夢へと変形されるということかもしれません。一 方、テレパシー現象は無意識の所作にすぎないのなら、そこには新たな問題は何も生じません。その場合には、無意識の心の生活の法則がおのずとテレパシーに対しても適用されることになるでしょう。
 
「夢とテレパシー」(341-342.)

ユング集合的無意識という仮説と似ているところはあるが、フロイト神秘主義的な解釈には傾こうとしない。

フロイトがテレパシーについて、体系的な見解を展開するのは、1932年の『続・精神分析』の「夢とオカルティズム」においてである。

ここでも、歳をとっておかしなことを言い出す人がいるけれども、自分はそうではないのだ、という、慎重な釈明が書き添えられている。

百パーセントの確信もないのに強引にでも確信しようとしているといった、この問題に対する私の態度に、きっ と皆さんは満足なさっておられないことでしょう。もしかしたら、皆さんは、これもまた、生涯まじめに自然科学者として研究にいそしんできた人間が、年をとって老体し、信心深くなって、だまされやすくなるたくさんの例の ひとつだ、おっしゃりたいのかもしれません。私としましても、偉大な人たちのなかには、そのような系列に入る人もいることは先刻承知しておりますが、私をそのなかにお入れになるのは、どうか御免こうむりたいものです。 私は、少なくとも信心深くはなっておりませんし、だまされやすくもなっていないと思っています。ただ、事実とのひどい衝突だけは回避しようという一心で、生涯背中を丸めて研究してきた者は、年をとってからも、その曲が った背中が直らず、新たな事実が出てくると、どうしてもそれに対して腰をかがめる格好になってしまうというだけのことなのです。皆さんはきっと、私が、程よく有神論の立場を保持し、オカルト的なものについてはいっさい 峻拒する態度をとったほうがいいとお考えのことと思います。ですが、私としましては、世間に媚びるようなことはできませんし、皆さんに、思考転移、ひいてはテレパシーの客観的可能性にもっと歩み寄った考え方をなさるよ うお勧めするしかないのです。

この講義では、こうした問題を扱うのに、精神分析から接近しうる範囲にのみ限定しましたことは、皆さんもお忘れではないと思います。十年以上も前になりますが、これらの問題がはじめて私の視界に入ってきたとき、私もまた、私たちの科学的世界観が脅かされるのではないかと不安を感じました。オカルティズムのいくぶんかでも真 であることが立証されることにでもなりますと、科学的世界観は、心霊主義神秘主義に席を譲らなければならな くなるだろうからです。しかし今日では私は考えを改めております。思いますに、オカルト的な主張のうち、真で あると判明したものがあれば、科学はそれを受け入れ、加工するだけの力量をもっているのでして、それが信じられないようでしたら、科学に大いなる信頼を抱いているなどとは、お世辞にも言えないでしょう。思考転移だけに 限って言わせていただければ、それは、科学的思考法ーー敵対陣営に言わせれば機械論的思考法ということになり ますがーーを、きわめて把捉しがたい心の領域へと広げてゆくのを促すように思えます。テレパシー的な出来事の 本質は、誰かある人の心のなかの活動が、それとは別の人の心に、同じ活動を起こさせるところにあるとされてお ります。この二つの心の活動のあいだには、何か物理的な出来事が介在していて、その一方の末端で、心的なもの ファンタジーが物理的なものに変換されるとともに、他方の末端で再びこの物理的なものがもとの心的なものに変換されるとい うことがあるのかもしれません。だとしますと、ここには、たとえば電話での話のやりとりの場合に生じる変換と似たようなものが、きっと見つけ出せるにちがいないということになるでしょう。いかがでしょう、もしもこうした心的活動と等価の物理的なものを所有することができるようにでもなれば、どれほど素晴らしいことでしょう。 申し上げたいのは、精神分析は、物理的なものと、これまで「心的」と呼ばれていたものとのあいだに無意識的な ものを挿入することによって、テレパシーのような出来事を受け入れる準備をしてきたということです。むろん今 のところは空想でしかありませんが、テレパシーという考えに馴染むことによってはじめて、これを用いていろ いろ成果をあげることができるかもしれないのです。ご承知のように、巨大な昆虫国家でどのようにして全体の意志が出来上がるかは知られておりません。もしかしたら、これは、テレパシーの類いの直接的な心的転移の道をと ってなされているのかもしれません。こう推測してみたくもなるのですが、これこそが、個体どうしが意思疎通を行うためのもともとの太古からの道筋であって、この道筋が、系統発生的発展のなかで、感覚器官でもって受け取 られる記号を用いたよりすぐれた伝達方法によって駆逐されて行くのかもしれないということです。むろん、その際、この古い伝達方法が、なおひそかに隠れて存続しつづけ、たとえば興奮の坩堝と化した集団におけるように、 ある条件のもとで力を発揮しはじめることも、ないとは言い切れないわけです。ともかくこうしたことはすべて、 まだなお未確定で、解けない謎に溢れているのですが、だからといって、怯えて尻込みするいわれもないのです。

 
「夢とオカルティズム」『続・精神分析入門講義』(69-71.)

「夢とテレパシー」での議論に引き続いて、フロイトは、仮にテレパシーというものが存在するとしても、ユング共時性のような、古典力学における因果性とは次元の違う概念を持ち出そうとはしなかった。それは生物が進化の過程で発達させてきたコミュニケーションの方式であって、人間においては無意識の領域に残存しているのだが、睡眠や集団的興奮などによって意識の働きが弱まるときに顕在化しやすいという[*1]、機械論的な仮説によって説明できるのだし、むしろ科学の拡張によって神秘主義を退けていくべきなのだと主張している。



2019/05/31 JST 作成
2019/06/02 JST 最終更新
蛭川立

*1:テレパシーは救難信号だという仮説については、蛭川立 (2002).「転生するのは誰か?」『彼岸の時間』春秋社.を参照のこと。