【資料】ヒポクラテス「婦人病」

女性が突然、言葉が話せなくなった場合は、両脚、両膝、両手が冷たくなっているのに 気付かれよう。このとき子宮に触ってみると、きちんとした位置にはない。患者は心臓がどきどきして歯ぎしりをし、多量に発汗する。その他にも神聖病におそわれた者に現われるような症状が認められる。また患者はこれまで聞いたこともないようなことをしでかす。こういう患者に対しては、その症状が現われているあいだは、両脚に多量の冷水を注ぎかけるのがよい。その他の処置については、必要があれば、上に述べたのと同じものを施す。
 
ヒポクラテス「婦人病第二巻・一五一」[*1]

いわゆる「ヒステリー(現在は身体表現性障害・転換性障害/変換症などと言われる)」についての記述である。統合失調症と同様、19世紀のヨーロッパで注目されるようになったこの病気が、すでにこの時代のギリシアで一般的であったことがうかがえる。

神聖病というのはてんかんのことであるが、この記述は「神聖病」ではなく「婦人病」の章にあり、神聖病とは区別されている。ここで記述されているのは非てんかん性発作のことであろうか、より具体的な症状が「婦人病第一巻」に記述されている。

子宮が肝臓や季肋部の所にあって息が 詰まると、黒目が上がって白目が現われ、体が冷たくなってくる。このときに顔色が鉛色 になる患者もある。さらに患者は歯ぎしりをし、口によだれが流れてきて、てんかんにかかっているように見える。
 
ヒポクラテス「婦人病第二巻・七」[*2]

その他、視覚や聴覚の障害が起こることも記されている。

おそらく女性に多い病気であることから、子宮の病気ととらえたのであろう。上記の引用箇所のすぐ手前に、この病気が一種のストレスによって引き起こされるメカニズムが記述されている。

この発作は、 ことにつぎのような原因でおこる。すなわち、腹が空で、ふだんよりもつらい仕事を多くこなすと、子宮は、空で軽いので、つらい仕事によって水分を失い、ずれていく。腹が空なので、子宮がずれるだけのすき間があるからである。子宮は、ずれると肝臓に当たり、 それにくっついて季肋部に入り込む。つらい仕事によって過度に乾燥しているので、子宮は走って上の方の水分のある所にくるからである。なお、肝臓は液体に満ちている。さて、 肝臓に当たると、子宮は腹部の周囲にある呼吸の通路をさえぎり、突然、窒息の発作を引 きおこす。
 
ヒポクラテス「婦人病第二巻・七」[*3]

なお、この「ヒステリー」は、すこし古い文献[*4]では「臓躁」と書かれることもあった。

後漢の時代に編纂されたとされる中医学の古典『金匱要略[*5]にも「婦人臓躁」という、よく似た記述があり、蘭学の素養のある医師、鎌田碩庵が1818年に著した『洛医彙講』の中でこのことを指摘し「ヒステリー」に「臓躁」の訳語をあてたという[*6]



2019/06/26 JST 作成
2019/06/29 JST 最終更新
蛭川立

*1:ヒポクラテス 大槻真一郎(翻訳・編集責任)・小川鼎三・緒方富雄(編集顧問)・石渡隆司(翻訳協力)・岸本良彦・他(翻訳)(1985).『ヒポクラテス全集 第二巻』 産学社エンタプライズ出版部, 733.

*2:ヒポクラテス 大槻真一郎(翻訳・編集責任)・小川鼎三・緒方富雄(編集顧問)・石渡隆司(翻訳協力)・岸本良彦・他(翻訳)(1985).『ヒポクラテス全集 第二巻』 産学社エンタプライズ出版部, 585.

*3:ヒポクラテス 大槻真一郎(翻訳・編集責任)・小川鼎三・緒方富雄(編集顧問)・石渡隆司(翻訳協力)・岸本良彦・他(翻訳)(1985).『ヒポクラテス全集 第二巻』 産学社エンタプライズ出版部, 585.

*4:たとえば、呉秀三 (1894/2002).『精神病学集要(上)』創造出版.

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呉秀三 (1894/2002).『精神病学集要(中)』創造出版.
精神病学集要(中) (精神医学古典叢書新装版)

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呉秀三 (1895/2002).『精神病学集要(下)』創造出版.
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*5:早稲田大学古典籍データベースに『金匱要略』の写本がある。

*6:石井厚 (1986).「鎌田碩庵『婦人臓躁説』考」『精神医学』28, 583-588.