ヨーガと瞑想

インド的世界観の底流に流れているのは、輪廻(saṃsāra)からの解脱(mokṣa)という発想であり、その基本は、西洋近代科学の唯物論(materialism)とは反対の、唯心論(spiritualism)である。mokṣaは英語ではliberationと訳されたりもするが、物質的な身体は精神を閉じ込めているもので、そこから自由になるという発想がある。

さらに、瞑想によって自己をよく観察することで、それが実現される、という身体技法がセットになっているのも、インド思想の特徴である。そこが思考偏重の西洋思想とは異なる。逆に、日本では身体技法は発達したが、論理的な哲学はあまり発達しなかった。

ヨーガ(yoga)とは、おおよそ「瞑想」という意味である。ヨーガとはサンスクリットで「止滅」「統御」を意味する。動詞形の語根√yujには、感覚や欲望に振り回される心を、あたかも暴れる馬を紐で樹につないでおくように、飼い慣らそうという意味がある。ヨーガの目的とされる究極の境地は、解脱(mokṣa)、または三昧(samādhi)などと呼ばれる。それは、感覚や欲望、行為の主体であり、輪廻の主体である表面的な自我意識の働きを消し去ることを意味している。これは、心の働きを「小さな自己」と「大きな自己」とに分け、身体に同一化している自己は偽りの小さな自己であって、本当の自己(ātman)は個々人の身体も時空も超越しており、そのことに気づかなければならない、とまとめることもできる[*1]

虚空のように[一切に]遍満する私には、飢えも乾きもなく、憂いも迷妄もなく、老衰も死もない。身体をもたないから
 
『ウパデーシャ・サーハスリー』(13・4)

ヨーガ(yoga)とは心の作用を止滅(nirodha)することである。心の作用が止滅されてしまった時には、純粋観照者である真我は自己本来の状態にとどまることになる
 
『ヨーガ・スートラ』(1・2~3)

意の働きが消え去るときに、気の動きもまた消え去る。気の働きが消え去るときに、意の働きも消え去る
 
両者がはたらきを止めない限り、感官は、その対象に向かってはたらく。だから、両者のはたらきが無くなった時に、解脱の境地は成立する
 
『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』(4・23、25)

ヒンドゥーの反主流派として出発した仏教は、もともと真の自己、アートマンという実体については語ろうとしなかった(無我: anātman、無記:avyākata)が、身体に同一化している小さな自己が虚構であるという点ではヒンドゥーの主流派のモデルと異なることはない。

サマタとヴィパッサナー

ヒンドゥー教ジャイナ教、仏教という区別にはかかわらず、インドの宗教の基本にあるのが瞑想である。インドの宗教は、なにか外部の存在を信じるというよりは、自己の内部を探求することを重視する。その点では宗教というよりは哲学に近い。しかし哲学が論理の体系であるのにたいし、インドの宗教は論理の体系に加えて身体技法が対応している。

瞑想には二種類の方向性があり、それぞれをパーリ語

 サマタ samatha
 ヴィパッサナー vipassanā

という。漢訳では前者が「止」、後者が「観」であり、両者をまとめて「止観」ともいう。

ヴィパッサナー瞑想では、呼吸や、浮かんでくるイメージや感情、思考には介入せず、それらを、ただありのままに観察して受け流すことが重視される。ヴィパッサナー瞑想上座部仏教で重視される方法で、大乗仏教の流れから生まれた禅の瞑想もこの方向であり、禅が初期仏教への回帰だと言われる所以である。

いっぽう、サマタ瞑想は、特定の身体部位やイメージに意識を集中したり、特定の言葉(真言マントラ mantra)を繰り返し唱えたり、積極的に呼吸を速くしたり、止めたりする。真言マントラ)はタントリズム密教)で重視されるが、念仏(南無阿弥陀仏)や題目(南無妙法蓮華経)もマントラの一種だと考えられる。思考や感情が湧いてきても、特定の対象へ意識を向け直したり、特定の発声に繰り返し集中することで、心の動きを制することができる。

サマタ瞑想は時代が下り、心身に負荷をかけてでも効率よく瞑想を行おうとする傾向の強いタントリズムでとくに重視されるようになった瞑想で、ヒンドゥーではハタ・ヨーガ、仏教では密教的な瞑想法が、これに対応する。

瞑想のほんらいの目的は輪廻からの解脱であるが、そのような世界観はさておき、精神を落ち着ける作用があることから、現代の心理学や精神医学でも注目されている。(→瞑想時の脳波)とりわけヴィパッサナー的な瞑想をアレンジしたマインドフルネス(mindfulness)は、不安、うつ、強迫などの神経症的な症状を緩和するのに有効だとされ、研究が進められている。

ヨーガの系譜

インダス文明(西暦紀元前4000-1800年)の印章に、すでにヨーガのようなポーズをとった人物像がみられることから 、瞑想的な伝統はアーリア系民族の到来以前からあったと考えられている。

ヨーガの伝統には、大きく分けて古典的なヨーガと密教的なヨーガがある。歴史的には、中世になって、 西からの新興勢力、イスラームの影響が強まる中で、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教が、当時民間レベルで広まっていた呪術(や、ひょっとすると中国医学の方法論)を取り入れつつ、そろってタントリズム密教)という新しい方法を発展させる。多少のリスクをおかしてでも、より早く解脱の境地に至れるように、身体的行為、とくに性的なエネルギーを利用して瞑想を加速させる方法が開発されていった。現在「ヨガ」と呼ばれている健康体操の原型は、中世に成立したハタ・ヨーガという密教的な瞑想法である。

古典ヨーガ(ラージャ・ヨーガ rāja yoga)はサーンキヤ哲学に基づいた瞑想体系である。古典ヨーガの基本文献である、パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』は、およそ西暦2~4世紀に記されたとされる。そこでは、どちらかというと精神的な瞑想の方法が述べられている。

時代が下り、ヴェーダーンタ哲学を背景にタントリズムの時代に発展した、ハタ・ヨーガ(haṭha yoga:力のヨーガ)では、身体の動きや呼吸法などが細かくマニュアル化される。13世紀のベンガル地方で活躍したゴーラクシャが記した『ハタ・ヨーガ』と『ゴーラクシャ・シャタカ』がその先駆的な著作である。さらに16世紀になって著されたスヴァートマーラーマの『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』、それに続く『ゲーランダ・サンヒター』、『シヴァ・サンヒター』によって、ハタ・ヨーガの体系は一応の完成をみた。

『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』は

 1. アーサナ āsana (体位法=調身)
 2. プラーナーヤマ prāṇāyama (呼吸法=調気)
 3. ムドラー mudrā (印=秘密の方法)
 4. ラージャ・ヨーガ rāja yoga (瞑想法=調心)

の4章からなる。1~3は、本格的な瞑想に入るための身体技法についての記述であり、それが古典ヨーガ(4)に加えられている。瞑想を効率よく行う目的で、積極的に身体を動かす方法が準備されている。

ヨーガもまた瞑想であり、ほんらいは輪廻からの解脱を目指すものだが、民間信仰における現世利益が混入したタントラ的なハタ・ヨーガでは、病気や死の克服という、より身体的な効能も強調される。中国の中医学から影響を受けたという可能性も指摘されているが、前漢の時代にまとめられた中医学の最古の文献である『黄帝内経』には、すでに様々な病気の症状が細かく記されているのに対し、ハタ・ヨーガの経典には、無病になる、不老不死になる、といった抽象的な表現しかみることはできない。

ハタ・ヨーガの身体論では、身体には「ナーディ nāḍī」という血管のような管が走り、「プラーナ prāṇa」という生命エネルギーが流れているとされる。これは、中医学における「経絡」と「気」の観念に相当する。アーサナは、柔軟体操によってプラーナの流れを良くするという考えに基づいた方法論であり、現在(英語読みで)「ヨガ yoga」と呼ばれている健康体操は、1〜3の身体技法、とくに1のアーサナの部分だけを取り出してアレンジしたものである。それは、瞑想の本来の目的とは異なるものになってはいるのだが、いわば、プールに通って準備体操だけして水には入らない、ということを繰り返しても健康には役に立つ、とでも例えれば良いだろうか。

クンダリニー

性的なエネルギーを目覚めさせ、昇華させ、<性>を<聖>に転化させるというのが、ハタ・ヨーガの基本的な考えである。背骨と並行する最も太いナーディ(スシュムナー・ナーディ suṣumnā nāḍī)に沿ってチャクラ cakra(輪)という節が並んでいるとされる。

ハタ・ヨーガでは最下部、会陰(または仙骨)のムーラーダーラチャクラ mūlādhāla cakra にクンダリ[ニ]ー kuṇḍal[in]ī という蛇、ないしシャクティ śakti という女神によって象徴される[女]性的なエネルギーが眠っており、これを目覚めさせ(クンダリニー覚醒)、 スシュムナー・ナーディに沿って頭頂まで引き上げることにより、解脱の境地に至るとされる。とくにそのプロセスを引き起こすアーサナ(体位法)とプラーナーヤマ(呼吸法)と身体の特定部位を締め付けるバンダ bandha の三つの組み合わせがムドラーの中心となる方法で、長時間呼吸を止めるなど、効率的であるぶん、身心に強い負荷をかける方法であり、指導者につかずに自己流で行うと失敗し、心身に異常をきたす(クンダリニー症候群)危険があるため、秘密の方法とされた。ムドラー、つまり封印と呼ばれるのはそのためである。密教が「秘密の教え」とされる所以である。

秘密の行法は師から弟子への口伝で伝えられる。第一に、文字にして公表すると誤解を招くおそれがあるということと、第二に、身体感覚、主観的な感覚でしか体験できないことは、文字にして表すことが難しい[*2]からである。



記述の自己評価 ★★★☆☆
(おそらく大きな誤りはないが、記述がやや散漫であり、もうすこしまとめる必要がある。)
2006/11/20 JST 作成
2019/07/16 JST 最終更新
蛭川立

*1:アートマン一元論をとるのはハタ・ヨーガが依拠するヴェーダーンタ学派であって、古典ヨーガが依拠するサーンキヤ学派の二元論とは異なるのだが、ここではそういった学派による世界観の違いについては詳述しない。

*2:蛭川がハタ・ヨーガの真似事を行い、クンダリニー覚醒に似た奇妙な体験をして失敗?したいきさつについては『精神の星座』(2011)に対談形式で書いた。