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陸治『夢蝶』[*1]
昔者(むかし)、荘周、夢に胡蝶と為る。栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。
自ら喩しみて志(こころ)に適えるか、周なるを知らざるなり。
俄然として覚むれば、則ち蘧蘧然(きょきょぜん)として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為るか、胡蝶の夢に周と為るかを。
周と胡蝶とには、則ち必ず分有り。此を之(これ)物化(ぶっか)と謂う。
『荘子』(内篇 斉物論第二)[*2]
蝶になってひらひらと飛んでいた。はっと目が醒めると夢だった。そう思って、目覚めたほうの世界での生活に戻る。それが普通である。
しかし、荘子こと荘周は問う。いま私、荘周は胡蝶になった夢を見ていた。けれども、逆のことも考えられる。つまり、いま、胡蝶が荘周となっている夢を見ているのではないだろうか。夢の中では、我々は「これが現実だ」と感じているが、だから、そこから覚醒した[と思っている]世界で「これは現実だ」と思っていても、それもまた夢であって、次の瞬間には目が醒めるかもしれない。そう考えてみることは可能である。
「物化」というのは難しい言葉である。荘周と胡蝶は別の存在である。別の存在であるのに、互いに変身することができる。このような作用を「物化」ということができる。
荘周の身体が属する物質世界こそが実在する世界であり、夢は幻覚にすぎない。近代社会の常識ではそう考えるし、古代より漢民族もこうした現実的な態度を好んだから、老荘思想は特異であり、とりわけ『荘子』には厭世的な超越性が色濃く認められる。
記述の自己評価 ★★★☆☆
CE2017/10/17 JST 作成
CE2021/09/23 JST 最終更新
蛭川立