私たちが合理的意識と呼んでいる意識、つまり私たちの正常な、目ざめているときの意識というものは、意識の一特殊型にすぎないのであって、この意識のまわりをぐるっととりまき、きわめて薄い膜でそれと隔てられて、それとは全く違った潜在的ないろいろの形態の意識がある、という結論である。私たちはこのような形態の意識が存在することに気づかずに生涯を送ることもあろう。しかし必要な刺激を与えると、一瞬にしてそういう意識の形態の意識が全く完全な姿で現われてくる。それは恐らくどこかにその適用と適応との場をもつ明確な型の心的状態なのである。この普通とは別の形の意識を全く無視するような宇宙全体の説明は、終局的なものであることはできない。
ジェイムズ『宗教的経験の諸相』[*1]
合理的な意識状態とはまったく違った意識の状態が、すぐ隣にあって、ちょっとした刺激で全く完全な姿で現れてくるという、これは亜酸化窒素による精神展開体験をふまえた論考だとされるが、たとえば眠ると夢を見るということを例に挙げれば、それほど奇妙な議論ではないことが理解できよう。
記述の自己評価 ★★★☆☆
2017/03/29 JST 作成
2019/09/20 JST 最終更新
蛭川立
*1:ジェームズ, W. 舛田啓三郎(訳)(1961).『宗教的経験の諸相(ウィリアム・ジェイムズ著作集3)』日本教文社, 190. ウィリアム・ジェイムズ著作集〈第3〉宗教的経験の諸相 (1962年)
James, W. (1988). Writings 1902-1910: The Varieties of Religious Experience / Pragmatism / A Pluralistic Universe / The Meaning of Truth / Some Problems of Philosophy / Essays. Library of America, 349.)