2003年4月、SARS流行下の中国で発熱、臨死様体験

窓の外からパン、パンと乾いた銃声が聞こえてくる。その音で意識を取り戻した。いつの間にか朝になっていた。熱に酔ったように頭が痛い。それなのに寒気がするから、また布団をかぶりなおす。人々のざわめきに混じって、女たちが泣き叫ぶ声が聞こえてくる。
 
新型肺炎の感染はすでに中国全土に広がっていた。一昨日、中央政府から「緊急状態」宣言が発令されたらしい。
 
カーテンを開けて窓の外を見てみたいが、それは危険だ。外出禁止令が出たとは聞いていないが、とにかく部屋からは出ないほうが良い。そもそもひどい頭痛と腹痛でベッドから起き上がれない。枕元の体温計を脇に入れてみる。悪寒がする。
 
アラームが鳴る。37.8℃。右腕の筋肉が痛い。喉の奥が乾燥しているが、咳が出るほどではない。ずっと埃っぽい場所で重い荷物を持って歩いたからだろうか。
 
顔の上に置いておいたはずの濡れタオルが、枕の下に落ちている。また拾って載せる。こんなものでは冷えない。冷たい水が欲しいが、水道はこの部屋の中にあっただろうか。また意識を失う。
 
暗闇の中からブオーンブオーンと、法螺貝のような音が聞こえてくる。重低音で読経が始まる。チベット式の葬儀だ。高地で空気が薄いせいか、死にそうなほど苦しい。なぜ葬式なのか。もう死んでしまったのか。まだ死にたくない。ドンドンと太鼓の音が聞こえ、読経はますます激しくなり、吐き気がする。脳が茹でられるように熱い。こんなところで死にたくない。女の気配がする。女が語りかけてくる。病気治しの女神だという。愛しなさい、愛すれば病気は治るという。苦しい。そんなことよりも冷たい水か欲しい。また体温計をオンにして脇の下に入れる。
 
アラームが鳴る。38.0℃。新型肺炎の診断基準だ。女が語りかけてくる。男は陽の気を持つ、女は陰の気を持つ。陰の気の強い女から陰の気を受け取らなければならない。苦しい。苦しいのに、意識の中心には静かな場所があって、そこに意識を向けると、とても安らかな気持ちになる。人が死ぬときは、こんなふうに死んでいくのだな、ということがわかる。夢でうなされていたのだろうか。記憶はそこで途切れている。
 
また目覚めたときには、朝の5時になっていた。頭痛も腹痛も筋肉痛もだいぶおさまった。体温は36.8℃。そのまま快復し、症状は戻らなかった。水様性の下痢があったから、食中毒のような症状だったが、何の病気だったのかはわからない。
 
(2003年4月24日、雲南省ルグ湖畔淡水村)

いったい私は何の病気に罹ったのだろうか。(調査旅行の日程については「2003年4月、SARS流行下、四川省・雲南省における調査記録」に詳述した。)

例年、2月から5月にかけて、花粉症になっていたが、4月中旬にも、まだすこし鼻水やくしゃみは残っていた。

水様性下痢(血液を含まない茶色の水様便)[*1]から始まり、やがて発熱したので、細菌性食中毒を疑った。腹痛は軽く、むしろ腹部膨張感が苦しかった。吐き気はなかった。悪寒をともなう発熱が続いたので、赤痢菌かサルモネラ菌ではないかと考え、ドキシサイクリンを服用したところ、翌日には回復した。しかし、SARS関連コロナウイルスやインフルエンザウイルスの感染でも水様性下痢を起こすということは、後から知った。なおSARS-CoV-2のほうがSARS-CoVよりも感染力は強いが毒性は弱く、下痢の頻度も低いようである[*2]

感染経路[*3]として考えられるのは、まずは四川省成都の市場の屋台である。逆算すれば潜伏期間は5日である。不衛生なものを食べた翌日にお腹を下すことはよくあるが、ある程度の潜伏期間をおいて、発熱を伴う下痢がきたとしたら、本格的な細菌性食中毒であろう。

標高2800mの乾いた高地だから、重い荷物を持って移動すれば、息切れもするし、砂ぼこりを吸えば喉がカサカサする。筋肉痛にもなる。ちょっとした高山病もあったのかもしれないが、もともと低酸素には弱い(片頭痛になりやすい)とはいえ、3000m以下というのは高山病になるにしては標高が低すぎる。

非典型肺炎という致命的な肺炎が流行しているということは知っていたが、本格的な呼吸器系の症状はなかったし、むしろ30%ていどのの感染者が水様性下痢を起こすということは知らなかった。SARS関連コロナウイルスは主として呼吸器症状を起こすために「肺炎」と呼ばれるのだが、ウイルスは宿主の細胞膜にある結合タンパク質がACE2であり(→「SARS関連コロナウイルス感染症の生物学」)それが小腸に多く発現していることから、水様性下痢などの消化器症状を引き起こすのではないかという説がある[*4]

いずれにしても、三日で完治したので、それ以上は考えなかった。

その当時は、最初に発熱と水様性下痢から始まったので、日本にいたときからの花粉症がおさまっていなかったこと、最初に発熱と水溶性下痢から始まったので、細菌性食中毒と軽い高山病が併発したのだと考えた。

非典型肺炎」というからには「肺炎」が起こらなかったことは、SARSコロナウイルスの症状ではないだろうと思って、それっきりにしていた。
  

症状 SARS 新型コロナ 細菌性食中毒 高山病 自覚症状
夜市で感染の可能性 あり あり あり なし あり
潜伏期間 2〜10日 2〜10日 種類による なし 5日
腹痛 多い 少ない 多い なし あり
下痢 多い 少ない 多い なし あり
発熱 あり あり 種類による なし 38.0度以上
筋肉痛 多い 多い なし なし あり
鼻水 徐々に悪化 あり なし なし 少しあり
徐々に悪化 あり なし あり 少しあり
呼吸困難 徐々に悪化 徐々に悪化 なし あり 少しあり

 
しかし、17年後、新型コロナウイルス感染症が流行する中で、もう一度、当時の調査ノートを発掘してみた。熱は38.0℃以上に上昇していた。熱が38℃を超えるのがSARSの特徴であり、逆に新型コロナウイルス感染症の発熱は若くて健康な人の場合、37.5℃程度である。

呼吸器系の症状がほとんど出なかったので、そのときはSARSだとは考えなかったのだが、若くて健康だったから、初期症状だけ出て治癒したという可能性も高い。

女神のご加護かどうかは、不明である。


記述の自己評価 ★★★☆☆
(自分の体験のメモなので、医学的に正確な情報ではない)
CE2020/04/15 JST 作成
CE2020/05/16 JST 最終更新
蛭川立

*1:下痢性疾患」に下痢便の種類と感染が疑われる病原体との対応が一覧表になっている(閲覧注意)。

*2:大西淳子 (2020).「SARSとCOVID-19のウイルスはどこが違う?」『日経メディカル』(2020/05/16 JST 最終閲覧)

*3:他の感染の可能性としては、現地でのガイド役の女性である。私が発症した前日には、咳があるというので自室に籠もってしまった。三日前に北京から来た観光客と接触があったので、ちょっとナーバスになっている、と言っていた。

*4:大庭好弘・筒井健介・吉川晃司・古賀菫・加藤南・山崎泰範・栁澤治彦・行木太郎・松澤真由子・根本昌実 (2020). 発熱・下痢症状を伴う新型コロナウイルス肺炎に対しヒドロキシクロロキン,ロピナビル/リトナビルを投与したが増悪しファビピラビルが著効した1例