個人向け遺伝子解析

ヒトのゲノムは約30億の塩基対からなるが、そのうちでタンパク質をコードしているエクソンは全体の約1%であり、遺伝子の数ではおおよそ2万になる。(このうちの半分である1万個が脳で発現している。)ヒトとチンパンジーの差異は2%弱で、ヒトの種内変異は0.1%、SNPs(単塩基突然変異)の数にして約200万塩基対である。(1%の変異が起こるのに200万年かかる程度の変異である。)しかし、疾患やパーソナリティなどの多くは多数の遺伝子が関わる量的形質であり、塩基の変異と対応関係にあることが明らかになっているSNPsはまだ100個のオーダーである。

遺伝子検査の主な意義は、癌や高血圧など遺伝的素因の強い疾患にかかる遺伝子の変異を知っておくことで、生活習慣の改善などによって病気を未然に防止できることである。このことは、個人の医療費を減らすことにもなり、ひいては社会全体の医療費を抑えることにもつながる。

遺伝情報を集めた企業が、それをデータベース化し、研究のために利用するという試みも始まっている。遺伝子検査サービスを受けることは(情報の利用については本人の意志で決められるが)同時に医学的研究に参加するということでもある。遺伝子検査を受けた個人は解析結果を知ることができ、研究する側は自発的な個人の協力で試料を集めることができ、研究の結果得られた情報が医療へ還元されていくというフィードバックが起こりつつある。

また別の利用方法として、遺伝子の変異の地理的分布に基づいて、個人の系統的なルーツを調べることもできる。

以下に代表的なサービスを挙げるが、他にも多数の業者が参入しつつある、新しい試みである。一方で、医学的な診断に結びつけるのは時期尚早であるとも考えられる。日本では、たとえば遺伝医学関連学会が「遺伝学的検査に関するガイドライン」を発表し、安易な検査に対する注意を促している。

検査に必要なDNAはわずかで、綿棒で口腔の内側をこすって取るか、唾液を1ml程度採取して郵送するだけでいい。おもに白血球の核にあるDNAが分析される。

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唾液試料採取キット。唾液と保存料を混ぜる仕組みになっている

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綿棒で口の中の粘膜をこすって細胞を採取し、それを乾かして返送する方式。(間抜けな自撮りにて失礼)

23andMe

遺伝子検査の先駆的なものに、2007年にアメリカで始まった「23andMe」がある。2013年にFDAから、根拠が明確ではない医学的診断を行ってはならないという警告を受け、疾患については限られた解釈しか行わななくなった[*1]。またパーソナリティや知能、精神疾患についての分析も行わない。そのかわりに、ローデータとして100万個のSNPsの多型を全部ダウンロードできるのが特徴である。

祖先の遺伝子は母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体の両方を調べてくれる。また遠いところではネアンデルタール人との混血の度合いまで知ることができ、近いところでは(同じ23andMeの解析を受け、情報を開示することに同意した人の中で)遺伝情報が似ているユーザーを、似ている順に百人ほど列挙してくれる。まるで、遺伝的SNS、遺伝的出会い系サイトとでもいうべき仕組みである。(これを書いている蛭川は、このサービスを利用して、とある遺伝学の研究者と知り合った。)

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23andMe: Accelerating Research

deCODEme

23andMeと並ぶ遺伝子解析サービスだった、アイスランドの「deCODE geneticsのdeCODEme」も、23andMeが解釈サービスをいったん停止したのと同じ2013年に解析サービスを中止している。

遺伝子解析サービスが新規の申込みを停止することは、たんに規制の強化という理由だけからではない。遺伝情報は一生変わらないので、定期的な健康診断と違い、ユーザーは一生に一回解析を受けるだけでいい。それゆえサービスを提供する側からすると新規の申込みによる利益は増加しにくくなる。いっぽう、ある程度の数の遺伝情報が集まれば、それをもとに医学的な研究に役立てることもできるし、あるいは製薬会社と提携するという方向でビジネスが進んでいくことになる。

Genographic Project

祖先遺伝子の調査に特化しているのが、National Geographicの「The Genographic Project」である。調査対象を各地の少数民族にまで広げており、参加者が支払った解析費用(約1万円)の一部は少数民族の生活改善に充てられる仕組みになっているが、少数民族の人々の生体試料を実験材料にしているにすぎないという批判もある。

日本発の遺伝子検査

日本の遺伝子検査で随一の実績を持つのは、ジェネシスヘルスケアの「GeneLife[*2]で、DeNAライフサイエンスの「MYCODE[*3]が後に続いている。現役の大学院生であった高橋祥子[*4]によって起業されたジーンクエストの「Genequest[*5]は、もっとも研究志向が強い。その他にもいくつかのサービスがあるが、検査は専門会社に委託しているものが多い。詳細は紙幅の都合で省略する。

日本の遺伝子解析サービスは、日本人、または東アジア人のデータを元に分析しているという特徴がある。ただし、少数のSNPから疾患にかかるリスクを計算するのは、現在の研究水準ではまだ不確かである。「遺伝子と三角」というブログには、ある匿名の個人が2015年に行なった、MYCODEとGeneLifeのすべての検査結果が公開されており、解析結果が一致しない項目が多いことがわかる。これは、参照している研究や、その分析のアルゴリズムが異なるからだが、解析の精度は研究の進展に伴い、上がっていくことが予想される。GeneLifeでは結果の閲覧期間は一年で終わってしまうが[*6]、MYCODEやジーンクエストでは、会員になればずっと結果のアップデートサービスが受けられる。

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DeNAヘルスケア事業部長・大井潤、ジーンクエスト代表・高橋祥子、ほか二名によるシンポジウム「遺伝子解析ビジネスとミドリムシ~“破壊的”イノベーションを生み出せるか~」(2015年)


パーソナリティや知能など、心理学にかかわる形質は、かりに遺伝率は高くても多数の遺伝子が関わる量的形質であり、少数のSNPから結論を出すのは難しい。心理系に特化した「GeneLifeMyself」というサービスは、手塚治虫の遺髪から抽出した遺伝子とユーザーの遺伝子を比較するなど、かなり好奇心をそそる内容ではあるが、まだまだ実験的な試みの域を出ない。「MYCODE fumfum」では、パーソナリティや知能にかんするテーマも含む個々の最新研究を紹介しつつ、会員がオプションで個別の分析を申し込むと、すでに登録しているSNPsの遺伝子型にもとづいて分析結果を知らせるというサービスを行っている。

GeneLifeには「GeneLifeHaplo」、MYCODEには「ディスカバリー」というサービスがあり、いずれもミトコンドリアDNAのハプログループにもとづくルーツを調べることができるが、Y染色体ハプログループのほうは対象外である。祖先遺伝子でも、日本でのサービスは、日本人に特化したデータを蓄積しているのが特徴である。(→遺伝子からみた日本列島民の系統)(なお、ミトコンドリアDNAハプログループの分析だけであれば、GeneLife、MYCODE、Genequestの標準的なパッケージにも含まれている。)

なお、ジーンクエストでは、23andMeやdeCODEmeの解析で得られたSNPのローデータを送ると、解析結果を返してくれるサービスも行っている。これは無料だが、ジーンクエストのほうがサンプルを多数集め、研究を推進していくためのデータとしても使われる。


GeneLifeの電車内広告(2016年)

中国の動向

中国の遺伝子検査で特徴的なのは、子供の才能を早期発見すると謳うサービスである。たとえば上海千友生物科技有限公司(上海バイオチップコーポーレーション)では、主に子供の早期教育のために、知能や情動、美術的、音楽的才能、舞踊、運動能力の遺伝子を分析する「GQテスト<遺伝子才能サービス>」を提供しているが、この解析は大人でも受けられる。

上海バイオテクノロジー社の遺伝子解析キットには、算命学鑑定書も付属している

ただし、こうした能力の遺伝子については未知の部分が多く、少数の遺伝子の組み合わせで多数の能力を調べようとしているところには限界がある。一度調べた遺伝情報は、一生変わらないのだが、子供の場合、その遺伝子を本人の意思によらずに分析しても良いのかという問題もある。

遺伝子検査の可能性と問題点

遺伝子検査を受ける第一のメリットは、最初に触れたように、疾患に罹患する遺伝的リスクを知ることで、発病を事前に予防できるようになることである。とはいえ、リスクがわかっても、発病が防ぎやすい病気と、そうではない病気がある。そもそも、現在の研究段階では、まだ疾患に罹りやすい傾向を正確には予測できない。

個人が検査を受ける場合、コストの問題もある。二万円ほどの金額を確実ではない診断に費やすなら、体重計を買うほうが、あるいは健康診断を受けたほうが実際的だと考えることもできるが、遺伝子は一生変わらないので、検査は一度受けておけておけばいいという側面もある。この場合、検査のサービスに登録した後に解析精度が上がった場合のアップデートが受けられるかどうか、それが無料か有料かも考慮する必要がある。DNAの読み取り技術もSNPのみ、エクソン全部、イントロンも含む塩基配列全部と向上しつつあり、同時にコストも下がりつつある。かけたコストに対して得られる情報の質は年々上昇していくだろう。

心理的特性の分析では、知見はさらに不十分であり、現時点では従来の質問紙法のほうがより正確である。ただし、質問紙法は自己申告だから、自己イメージと遺伝子の間のズレを知ることができるという可能性はある。いずれにしても、自分のパーソナリティのおおよその傾向がわかったとしても、対人関係の改善などに幾ばくかは役に立つかもしれない。精神疾患の予防といった医学的な実用性の可能性は開けているが、まだ実用化のレベルには達していない。身体的な疾患よりも、パーソナリティのような個性が遺伝子と結びつけられると、血液型性格診断を、よりもっともらしくした「遺伝子占い」が流行する可能性もある。

祖先の系統を知るために遺伝子をマーカーとして使う方法は、疾患リスクなどよりも信頼性の高い分析ができる。自分のルーツがわかるというのは面白いものではあるが、直接なにかの役に立つわけではない。他の疾患や心理的特性もそうだが、知ることによる精神的負担もありうる。文脈によっては、人種差別の可能性に配慮しなければならない。

遺伝情報は「究極の個人情報」などとも言われるが、親子や兄弟姉妹の間でも半分は共有されているので、ある個人が得た情報は、血族の遺伝情報の一部を知ることにもなるため、その点にも注意が必要である。逆に、家族で検査を受けた場合、生物学的父子関係の有無を明らかにすることも可能になってしまう。

また、検査のために送られたDNAの行方も問題である。その情報が、個人を特定できるまま流出する可能性がないわけではない。また生体試料が破棄されるか保存されるかにかかわらず、読み取られた塩基配列の情報自体はコンピュータ上のメモリとして保存できる。全ゲノム30億塩基対でも400MB、個体差の情報である100万塩基対ならわずか100kBである。保存されたデータは集団として、医学的な研究に役立てることもできるが、個人の個性としても半永久的に保存されうる。理論的には、その情報をDNAに逆転写して受精卵に組み込めば、任意の未来にクローン人間を作ることさえ可能である。

個人のゲノムが正確に分析できるようになると、子どもが産まれた時点、妊娠中、あるいはすでに受精卵の時点で、将来罹患する病気や、さらには寿命すら推定できてしまうかもしれない。


Gattaca - Official® Trailer [HD]
主人公は、出生後の遺伝子検査で、ADHD躁うつ病、心疾患に罹患するリスクがあり、推定寿命30.2才と診断されるが、やがて宇宙飛行士になりたいという夢を抱くようになる。

1997年に公開された映画『GATTACA』[*7]では、遺伝子組換えによって計画的に生まれた「valid(適合者)」と、自然受精による「invalid(不適合者)」が区別される近未来社会の姿が描かれている。(→「【映像資料】『GATTACA』」)

出生前診断が一般的になっているものに、たとえばダウン症候群(遺伝子ではなく染色体の異常)がある。非確定検査は妊娠10週以降、確定検査は妊娠15週目以降に可能になる。掻爬術による人工妊娠中絶が可能なのは妊娠11週までだから、確定検査以降に出産しないことを決めた場合、人為的に死産を引き起こすという方法をとらざるをえない。

これに対し、着床前診断では、人工授精による受精卵の遺伝子や染色体を体外で検査し、その結果で妊娠を望む場合だけ子宮に着床させる。望まないものを中絶するというよりは、望むものだけを産む、という、より前向きな技術であり、病気で苦しむ人を事前に減らすという意味も持っているが、それは自然の摂理に反するという意見もある。しかし、そうであれば、医学によって病気を治療すること自体が自然の摂理に反するという見方もできる。

さらに遡り、男女のカップルで検査をして、その組み合わせではどういう遺伝子を持った子が産まれてくるかを推測することも理論的には可能であるし、あるいはデータベースから条件に合った相手を探すことも可能である。すでに「カップル相性診断」や「DNA婚活」を謳う「ジーンパートナー」というサービスも始まっている。
www.genepartner-jp.com
個々人の主体的な「愛」によって選択される婚姻、そして、そこから生まれてきた子どもたちが、かけがえのない存在であるという近代社会の理念を揺さぶる発想である。

ジーンパートナー」は、解析には科学的な根拠があるとしている。たとえば、人間は相手の体臭を手がかりにして、自分と遺伝的に似ているが近すぎもしない相手を性的なパートナーとして選択しているという研究があり、それは、近親交配を避けながら遺伝的に進化していこうとする進化生態学の理論によって説明される。

しかし、脳に備わった生物学的なシステムが進化生物学的に最適化されていたとしても、それは、一夫多妻的な多産多死のシステムによって遺伝的な進化が実現されるという意味での合理性である。一夫一妻的な婚姻、そして子どもたちと共に家庭を築いていくという近代社会の主観的、文化的な幸福とは、かならずしも一致しない。

すべての人間が平等に生きる権利を持ち、子孫を残す権利がある、というのが、近代社会の基本理念である。そのことによって人間集団の遺伝子プール全体に有害な突然変異が増えていくことや、逆により良い遺伝子を増やして人類を進化させていくという優生学的な思想は忌避される。なぜなら、個々人が幸福に生きる権利のほうが、第一に優先されなければならないからだが、そのことと、人類全体がより良い方向に進化していくことの間には、矛盾があるともいえる。

人権の尊重と生物学的優生思想の齟齬を解決する前向きな技術としては、遺伝子編集技術の可能性が考えられるが、そこでは逆に「自然であることが良い」という主張がなされる。「自然食品」や「自然出産」などが表面的な流行の様相を呈しているが、やはり、これは近代社会の理念とは矛盾するものである。(「自然主義の誤謬」については、稿を改めて論じたい。)

なお、より現実的には、たとえば保険に加入するときに、遺伝子検査の結果で保険金が変わってきたり、保険に加入することを拒否されるといったことが起こりうる。また、クウェートでは2015年に全国民の遺伝情報の登録を義務づけた。テロリズムの防止のためだという。また、DNA分析による生物学的父子鑑定の技術も実現したが、当事者がそのことを知ることによって幸福になるとはかぎらない。

遺伝子という「究極の個人情報」を当事者、あるいは他人が「知る権利」だけでなく、当事者が「知らない権利」も問題になってくるだろう。


記述の自己評価 ★★★☆☆(網羅的な記述だが、細かい部分の情報が曖昧。2016年の時点での最新情報をもとに執筆した後、変化に気づいたところは加筆修正したが、気づいていないところは修正できていない。)

2016/11/20 JST 作成
2020/01/09 JST 最終更新
蛭川立