遺伝子解析は京大ウイルス研で学んだ

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いっそ、早く免疫を身につけて自由闊達に働きたいと思うぐらいである。

抗原やら抗体やら、いろいろ検査も受けてみたいが、病院や保健所に問い合わせても大忙しのようで、風邪気味なのだというぐらいでは、とりあってもらえない。17年まえには中国雲南の山中でSARS騒動に巻き込まれたなどと言うと、また話がややこしくなってしまう。

けっきょく、自宅でじっとしているしかない。自宅でもやるべき仕事は多々あるのだが、どうも落ち着かない。

PCR検査が進まないのは、設備の不足よりは人材の不足だという。裏を返せば、PCRがいかに高速な方法かという意味なのである。

増やしたとか増やすとかと言っているところは検体を採取するところであって、そこで検査ができるわけではない。それが送られてきて実際に検査する地方の衛生研究所がもうギリギリの状態だ。今でも人材も設備も不足しているのに、細いパイプの中に無理に大量の検体を流し込むような状況になる。特に検査技師の問題は大きい。
 
マイクロリットル単位で何種類もの試薬を順番を間違えずに加えるという根気と技術力の必要な仕事だ。キャラクターの問題もある。私は長く見てきているし、部下を適材適所で配属しなければならない立場なので、向いている人と向いていない人の違いがわかる。長期間根気よくコツコツと取り組める人でないと向かない。自信満々であったり乱暴な雑な人がやるとダメ。それに手先が器用でないとできない。
 
大本のボトルを汚してしまって全部陽性になったという事故もこれまでいろんなところで聞いている。空中にウイルスが飛んで他の検体に落ちてしまうようなことがないように部屋を分けて、管理に細心の注意を払うことも必要だ。昔からPCRはたいへんだといわれる。その技術を持つ人の養成は一朝一夕にはいかない。


PCR検査せよ」と叫ぶ人に知って欲しい問題 ウイルス専門の西村秀一医師が現場から発信」[*2]

 
なるほど他人に「PCR検査せよ」と叫ぶ人たちは無責任だろう。私は「PCR検査?手伝わせてください!」と叫びたいが、けっきょく、技術を学び直すところからはじめなければいけない。「長期間根気よくコツコツと取り組める人でないと向かない。自信満々であったり乱暴な雑な人がやるとダメ」と言われると、満々な自信も縮んでしまう。老兵は死なず、ただ去りゆくのみ。



西暦1987年秋、私は大学に入ったばかりで、京都の下宿で一人暮らしをしていた。勉強しながら学費も生活費も稼げるアルバイトを探していた。

その後生物学教室のほうへ向かうとウイルス研で手つだい募集というビラを発見。…メモをとっていると背後より…丸山ケイゾウ[*3]に肩をたたかれて、スカウトされてしまった。そしてウィルス研で話を聞く。DNAを切ったりつないだりできるらしい。基本的に週4時間で月1万円という。
 
(1987年10月5日の日記。文語が混じっている部分は口語に書き換え)

月給一万円は安いけれども、むしろ授業料を払わなくても技術が学べるのだから、願ってもいない機会であった。

抽出したDNAを制限酵素で切って電気泳動、ゲルのバンドを読み取って塩基配列を考えるという地味な手作業を学んだ。DNAならサザンブロット(Southern blot)、RNAならノーザンブロット(Northern blot)という方法である(1975年ごろ開発)。

ウイルス研では、白衣を着た先輩方から、可能なかぎりラボで過ごすようにと言われた。研究室に泊まり込み寝食を忘れて実験をするという生活に憧れていた。日ごろより大学関係者に「職場で寝泊まりするという選択肢もある」と言っているのだが、話の文脈がずれているようで、うまく伝わらない。

寒天培地を山のように積み上げて黙々とコロニーを回収し、化学反応させ、DNAを分離するために電気泳動し、目的の遺伝子があるかを確認する。この作業を、何時間も飲まず食わずで続けました。ついに目的の遺伝子を見つけたときは、達成感とうれしさで笑い声をあげました。誰もいない実験室に、窓から差し込み始めた朝日のまぶしさには、ある種の満ち足りた幸福感とともに今でも思い起こされます。

糸川昌成[*4]『科学者が脳と心をつなぐとき』

糸川昌成先生は私よりも数年、年上の先輩である。東京都医学研究所の先生で、ウイルス研究所とは関係がないのだが、発揚気質というのか、実験室で寝食を忘れ夜を明かす歓びを身体で知っている人の一人だから、すこし引用させていただいた。私も興奮すると眠れなくなり、けっきょく睡眠障害をこじらせてしまう、そんな相談にも乗ってくださった。

1987年の京都に話を戻す。

夕刻、セブンの前にとめてあった自転車のカゴに京大学生新聞(号外)がほうりこまれていて、
”日本人初の医学生理学賞受賞 利根川氏にノーベル賞
と書かれていた。そういうことである。
…先を越されてしまった。

 
(1987年10月13日の日記)

京都大学ウイルス研究所[*5]を中退し、単身渡米、MITで研究を続けた利根川進ノーベル生理学・医学賞を受賞したのが1987年10月12日であった。

「先を越されてしまった」とは、えらく自信満々である。えてして自信満々な人間ほど、地味にコツコツ作業をするのが不得手だったりする。(別の場所に「SARS関連コロナウイルスの研究所内感染」などという記事を書いたが、他人事だとは思えない。)

ウイルス研からスカウトされてからわずか一週間後、不思議なタイミングだった。私は利根川先生の影響を受けてウイルス研に行ったのではない。単純にDNAやらRNAやらに興味があったからである。もちろん、敬愛していた丸山先生に肩をたたいていただいたから、ではあるのだが。

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統合される前の京都大学ウイルス研究所[*6]

ポリメラーゼ・チェイン・リアクション(PCR: Polymerase Chain Reaction)という、画期的な技術のことを知ったのは、その数年後だった(1985年ごろ開発)。

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PCRの出現で、1日ががりだった作業が40分でできるようになった[*7]

いままで手作業で学んできたことは何だったのだろうかと思うほど驚いたものである。たとえて言えば、デジカメの出現により、暗室に籠もって銀塩フィルムを扱う技術が時代遅れになってしまったようなものだ。

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DNA鑑定法の種類[*8]

とはいえ私の関心事は医学ではなくむしろ集団遺伝学にあった。分子生物学が華やかなりしころ、ヒトゲノム計画も実現に向けて一気に加速する流れにありつつ、しかしPCRの話を聞いて、むしろそれが遺伝的な父子関係の研究を加速するだろうと考えた。それはパンドラの箱を開けてしまうことになるだろうとも考えた。

後にシャルル・フーリエの社会思想へ関心を寄せるようになったこととも関係していたと思う。中国の少数民族で、雲南省に住むモソ人は、夫婦別居、古代の日本のような通い婚の伝統が続いているという[*9]。それを聞いて出かけて行ったのが2003年の春のことであった。そこで謎の伝染病騒動に巻き込まれ、九死に一生を得て逃げ延びてきた[*10]

それから17年経って、また熱を出して寝込んでしまった。そしてあらためて、33年前に書いた日記を読み直してみたのである。



記述の自己評価 ★★☆☆☆
(思い出話であって、学術的な正確さはない。)
CE2020/05/10 JST 作成
CE2019/06/03 JST 最終更新
蛭川立