オーストラリア先住民美術

岩壁画

オーストラリアにおける絵画の伝統は、この大陸に人間が移住した5万年前に遡ることができる。


ノーザン・テリトリージャビルーを中心とするカカドゥ地域

 


カカドゥ国立公園


ウビルーの岩壁画


ハエが多いので顔全体を覆わなければならない

壁画は長年の風雨にさらされてきたのだが、正確な年代を知ることは難しい。すでに絶滅した有袋類インドネシア方面から渡来した帆船が描かれていることから、壁画の年代を推定することができる。


四千年前に絶滅したタスマニア・タイガー

絵画の主題は、動物や、神話時代の精霊たちの姿である。同じような岩壁画は広く世界各地で、5万年前から描かれるようになったらしい(→「化石人類の物質文化と精神文化」)。これは、現生人類 Homo sapiens がアフリカ大陸を出てユーラシア大陸、そしてその先へと拡散していった時期である。

樹皮画

カカドゥやアーネムランドでは、ユーカリの樹皮に精霊たちの姿を描く絵画の伝統があり、それも数万年前に遡るかもしれない。現代の代表的な画家としては、アーネムランド、インジャラク(オーエンペリ)の故・トンプソン・イルジリを挙げることができる。彼は特異な感覚の持ち主としても知られており、日本のテレビ局の企画で往年の霊能力者、宜保愛子とのテレパシー実験を行ったこともある(→「アーネムランドの樹皮画家」)。


インジャラク・アート・センター

injalak.com

水彩画

ミッションが水彩絵具を持ち込むと、先住民たちは水彩画を描きはじめた。


アリス・スプリングスを中心とする中部砂漠地帯(レッド・センター)

アリス・スプリングス郊外にドイツ系ミッションが建設したヘルマンスブルグ共同体で生まれ育ったアルベルト・ナマツィラがそのさきがけである。


ナマツィラの絵が使われた「オーストラリアの日」[*1]の記念切手。1993年。

レヴィ=ストロースは、彼の絵を「オールドミス」の趣味のように面白味のない作品だと批評している[*2]が、なるほどナマツィラが描きつづけた絵はどれも単調な風景である。しかしじっさい、ブッシュには単調な風景が広がっており、彼はそれを愚直に、写実的に描きつづけたといえる。


ヘルマンスブルグ近郊の風景

もっとも、レヴィ=ストロースはオーストラリアの先住民文化を退屈だといっているのではない。むしろ、そのスノッブといえるほどの博学嗜好と抽象性に驚きを表明している[*3]。その抽象性は、アクリル画による現代美術によって開花することになる。

アクリル画

オーストラリア中西部では、掘り棒でイモやアリなどを採集するのが女性の仕事であった。だから採集活動のための掘り棒は、女性の象徴でもある。この地域には、掘り棒で砂の上に簡単な記号を描く伝統があった。

この地域にアクリル絵の具がもたらされたのは、1988年ごろである。

それと同時に、オーストラリア現代美術の母、エミリー・カーメ・ウングワレーが、棒の先につけたアクリル絵の具で点描画を描き始める。78歳のときである。アリス・スプリングス近郊のユートピア(大きな砂の丘)という隔絶された土地で生まれ育った彼女が、とくに美術教育を受けたわけではない。以降、1996年に86歳で逝去するまでのわずか8年の閒に、多数の先駆的な作品を残した。


エミリー・カーメ・ウングワレー『Emu Woman(エミューの女)』1988-89年[*4]

その最初の作品が『エミューの女』であり、中西部オーストラリア先住民現代美術の、点描スタイルのさきがけとなった作品でもある。この点描画はまたたく間に先住民社会を席巻し、また外部の世界にも強い影響をもたらした。描き手がおもに女性であるために、彼女たちの現金収入源にもなっている。
 


アリス・スプリングス空港。中部アランダ人の土地[*5]。白人の食物がもたらされて以来、肥満が大きな問題になっている。


アリス・スプリングスは地球上でもっとも隔絶された都市のひとつである

アリス・スプリングスの街のいたるところに点描画がある

郵便局の前のゴミ箱
 

ATMマシン
 

駐車場に停めてある自動車


アリス・スプリングスのストリートで絵を売る画家のネリエ・マルブンカさん(左端)とその親族(西アランダ人)


アリス・スプリングス西方、ユララ地域にある巨岩、ウルル(エアーズロック


小さな村だったユララには空港ができ、ホテルが建ち、観光開発が進んでいる

 

観光客向けの絵画教室も作られるようになった
 
 

マルク・アートで点描画体験

日本の現代美術との関係

オーストラリア中西部先住民現代美術に特徴的な点描は、日本の草間彌生の1960年ごろの作品によく似ている[*6]。しかし、草間が第二次大戦前の日本の封建的な文化や自身の幻覚と闘っている[*7]のに対し、オーストラリアの画家(おもに女性)たちが、なにか(たとえば白人の支配や女性差別)と闘っているようにはみえない。


『Emu Woman(エミューの女)』(1988-1989年)(左)と、草間彌生『Self Obliteration(自己消滅)』(1968年)(右)[*8]

隔絶された砂漠の先住民が影響を受けたとは考えにくいが、オーストラリアでも近年、草間の作品が注目されているのは事実である。


『The Obliteration Room(自己消滅の部屋)』クイーンズランド現代美術館。2014年[*9]

草間は四十年にわたって東京の精神科病院に入院しているが、2017年[*10]には病院の斜め向かいにあった自身のアトリエを改築し「草間彌生美術館」を開館した。むしろ海外から多くの見学者が訪れている。


『水玉の女王"草間彌生の全力疾走』[*11]

また、オーストラリア先住民現代美術から影響を受けたと思われるのが、ディジュリドゥ奏者でもあるGOMAの点描画である。

You are Beautiful

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  • アーティスト:GOMA
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彼は、アーネムランドで先住民からディジュリドゥの演奏を学んだ。交通事故で臨死体験のような体験をした後、不幸にも高次脳機能障害をかかえることになるが、そのときから、自分でも理由がわからずに、点描画を描き始めたという[*12]

精神・神経疾患や臨死体験などの特異な心理体験によって、ふだんは自我によって覆われている深層のイメージが表出してくるのかもしれない。(→「西丸四方狂気の価値』)もしそうなら、オーストラリアの先住民たちは、日常生活の中で、元型的イメージと共存して暮らしてきたともいえるだろう。そのイメージは、文明化によって色褪せるというよりは、むしろその色鮮やかさを増しているようだ。



記述の自己評価 ★★★☆☆
(大きな間違いはないが、議論が広く浅く、まだ未整理の写真などの資料も多数埋もれているので、加筆修正したい。後半部分は別の記事にする予定。)

CE2017/11/18 JST 作成
CE2021/06/15 JST 最終更新
蛭川立

*1:1788年1月26日にイギリスの艦隊がシドニーに入港した日を建国記念日のように祝う日であるが、先住民などからの批判は少なくない。

*2:レヴィ=ストロース, C. 大橋保夫(訳)(1976).『野生の思考』みすず書房, 106. (Lévi-Strauss, C. (1962). La pensée sauvage. Plon.)

*3:前掲書, 105.

*4:Neale, M. (Ed.) (2008). Utopia: The Genius of Emily Kame Kngwarreye. National Museum of Australia Press.

*5:Spencer and Gillen (1899). The Native Tribes of Central Australia, Londonがアリス・スプリングス近隣のアランダ系先住民の古典的なエスノグラフィーである。

*6:これは蛭川の主観的印象であって、両者の間に何らかの関係があったという客観的裏付けを知っているわけではない。

*7:草間彌生すみれ強迫』、西丸四方狂気の価値

*8:国立新美術館朝日新聞社(編)(2017).『草間彌生 わが永遠の魂』(図録)朝日新聞社.

*9:Queensland Art Gallery / Gallery of Modern Art. (2014). Yayoi Kusama’s The obliteration room. QAGOMA.(2019/05/04 JST 最終閲覧)

*10:同年、著者は草間と同じ屋根の下で同じ釜の飯を食しており、少なからぬ影響を受けた。概日リズム睡眠障害の治療のための「ナイト・ホスピタル」というプログラムで、夜は病院で寝泊まりし、規則正しく早寝早起きし、昼間は出勤するという、要するにそれだけのことなのだが、自宅ではどうしても生活のリズムが乱れがちになってしまう場合、この単純な方法が意外に奏効する。

*11:松本貴子(ディレクター)(2012).『”水玉の女王” 草間彌生の全力疾走』日本放送協会(5〜7分の部分に病棟の様子が映されている)

*12:GOMA (2016).『失った記憶 ひかりはじめた僕の世界―高次脳機能障害と生きるディジュリドゥ奏者の軌跡―』中央法規出版.

GOMA & The Jungle Rhythm Section(出演)・松江哲明(監督) (2013).『フラッシュバックメモリーズ』角川書店.