霊魂仮説とESP仮説
ある初老の女性が、不思議な夢を見たという。
亡くなった母親が夢に出てきて「二階にある簞笥の下から二番目の引き出しの奥に、赤い帯があるから、和服を着るときに使いなさい」と言った。翌朝、簞笥の引き出しを開けてみると、積み重なっていた和服の下に、見たことのない赤い帯があるのを見つけた。[*1]
この超常的な夢は、どのように解釈できるだろうか。
- 霊魂仮説:死んだ母親の霊魂が夢の中に入ってきた。
- ESP仮説:夢を見た女性が、夢を見ている間に引き出しの中の帯をESPによって透視した。
- 通常感覚仮説:夢を見た女性は、以前に引き出しに赤い帯が入っているのを見て知っていたのだが、忘れていた。それを夢の中で思い出した。
通常感覚仮説では説明できないからといって、すぐに霊魂仮説が正しいということにはならない。というのは、肉体の死後も霊魂が存続すると考えるよりは、生きている人間に通常の感覚ではない知覚能力があると仮定したほうが無理がないからである。
霊魂の死後存続をテーマにしていた心霊研究から人間の未知能力を研究する超心理学へとパラダイムが移行したのは、そのためでもある。しかし、超心理学が霊魂の死後存続を否定しようとしているわけでもない。もし人間に透視能力があり、かつ、距離によって減衰するとか、特定の物質によって遮蔽されるとかいう制限があれば、その制約が強ければ強いほど、霊魂仮説が有力になるからである。
心の科学と行動主義
心は観測不能である。観測可能なのは、生体に対する刺激と反応の関係だけである。だから科学的心理学では、刺激と反応だけを研究する。この考えを推し進めたのが行動主義(behaviourism)であり、現在の実験心理学の出発点になった思想である。現代物理学における操作主義(operationalism)の影響も看過できない(→「操作主義」)
心自体は不可知だが、以下のような、いくつかの立場を分類できる。
刺激→心→反応
心という実体は存在するが、観測できない。単純な実在論。
刺激→(?)→反応
心という実体が存在するのかしないのかは、観測できないからわからない。実証主義的な不可知論。
刺激→反応
刺激と反応の関数が心であるとする。根本的行動主義(radical behaviourism)。これはもっともラディカルな立場だが、しかし誰しもが主観的には心というものを持っているという実感がある。そこで、
刺激→(錯覚)→反応
「心を持っている」という感覚は錯覚にすぎない、という折衷案も考えられる。消去主義という考えかたがこれに近い。
行動主義に対する反省として起こってきたのが認知心理学・認知科学である。刺激と反応の間には心という実体はない、あるいは不可知かもしれないが、コンピュータのような情報処理が行われているというモデルを考えることはできる。
PKとESPの操作的定義
行動主義的な超心理学の立場に依拠すれば、PKやESPという能力が実在するかどうかについて議論する必要はない。
決められた手続きの実験を行い、その結果を統計的に処理した結果、偏りが出れば、それを操作的(operational)にPKやESPと名づけて議論を進めることができる[*2]。
これは超心理学という分野が特殊だからではなく、行動主義の影響を受けた実験心理学全般と同じ方法論である。
しかし、とりわけ超心理学の場合にはその傾向が顕著であり、逆にいえば、心的現象を操作的、統計的に処理していく、もっとも典型的な分野だともいえる。
記述の自己評価 ★★★☆☆
(長いページの中に沢山の話題が入っており、混乱気味。複数のページに分割したほうが良い。)
CE2006/12/08 JST 作成
CE2023/04/09 JST 最終更新
蛭川立