【資料】田口ランディ『アルカナシカ』

そこに存在するものは一〇〇パーセント現実だった。何一つとして非現実はなかった。つまり見えないものが見えたわけでなく、見えているものが見えているだけだったのだ。
 
階段を降りて家の裏へと向かう。そして、あの汚いトイレの前に立って、壊れかけた扉を開けたとき、目を疑った。トイレはありのままに汚かった。汚いことに変わりはなかった。何一つ変化していなかったにもかかわらず、そのトイレは神々しさで光り輝いていたのである。汚れているにもかかわらず高貴で神聖なものとして私には感じられたのだ。その神聖さたるや、私が体験したすべての神聖を足しても足元にも及ばないほどの神聖さだった。というか、私は生まれて初めて神聖とはどういうことなのかわかった。こういうことなのである。このような感情、感覚を私に与えるものが神聖なのである。つまり私はこれまで神聖なも のを見たことがなかったのである。そして、最初に接した神聖さをもつものが、メキシコの田舎の糞まみれになったトイレだったのである。

(中略)
 
結局、私はとらとう幻覚を見なかった。何一つ。現実に見えるもの以外のものを見なかった。マジックマッシュルームをあんなに食べたのに!幻聴すらなかった。私に聞こえるものはありきたりの、つまり日常の、現実の音だけだった。ただ、私が体験した現実は信じられないほど神々しかったのである。変わったことと言えばそれだけだった。
 
田口ランディ『アルカナシカ』[*1]



2019/06/09 JST 作成
蛭川立

*1:田口ランディ (2011).『アルカナシカ―人はなぜ見えないものを見るのか―』角川学芸出版.

アルカナシカ  人はなぜ見えないものを見るのか

アルカナシカ 人はなぜ見えないものを見るのか