明晰夢

夢の中でこ「これは夢だ」と気づく体験は、心理学では明晰夢(自覚夢)(lucid dream)と呼ばれる。

日本人の大学生を対象にした調査では、約8割が、一度ぐらいはそういう体験をしたことがあるらしいし、百人に一人ぐらいの割合で、毎晩の夢がすべて明晰夢だという人もいる。そうでないふつうの人も、練習すれば頻繁に明晰夢を見られるようになる。夢の中で夢だと気づくことができると、さらに夢のストーリーを勝手に変えてしまうことができるようになる。自分の好きな場所に行ったり、嫌いな登場人物を消したりすることができる。

夢の中でこれができるようになると、さらに起きている時にも、この世界も実は夢だということに気づくことができるようになり、起きている世界の出来事も自分の意のままに変化させてしまうことができるようになる「らしい」と、ネパールの亡命チベット人修行者から聞いたことがあるが、そこまでは本当かどうかはわからない。彼にはもっとくわしい奥義を聞き出そうとしたのだが、あまりくわしいことは教えてもらえなかった。唯識や中観などの基本的な思想を十分に学ばないうちから、あわてて身体的な行に飛び込むのは、準備体操なしに水の中に飛び込むようなもので、危険だという。

その話を聞いてから三日ほど経った日の晩、カトマンドゥの安宿の、グニャグニャしたベッドの上で、生まれて初めて明晰夢らしい明晰夢の体験をした。

サンフランシスコの坂道を歩いていた。道の両脇には可愛らしいお店が軒を連ねている。
 
ひとつの店のショーウィンドウに、パステルカラーのお皿や食器がディスプレイしてあるのが目を引いた。そこに置いてある黄色いお皿が欲しくなった。どうせ夢なのだから一枚ぐらいタダでもらってもいいだろう、どうせ夢なのだから……と思った次の瞬間、自分が夢を見ているのだということをはっきりと自覚できた。
 
いま、自分は夢の中にいる。それならば、お皿を万引きするなどという、つまらないことをするよりも、もっとおもしろいことをしようと思い、道路に出て、両手を上に挙げて思い切りジャンプすると、そのまま空を飛ぶことができた。目の前の自動車を飛び越え、真夏のカリフォルニアの抜けるような青空に向けてぐんぐん高度を上げていくたびに、身体を内側からぐいぐいマッサージされるような不思議な心地よさを感じた。はるか上空から見下ろすサンフランシスコの街は、まるでおもちゃの都市のようにきらきら輝いていた。

 
一日の睡眠時間を8時間とすると、人生の三分の一を眠りの中で過ごす計算になる。一生を90年弱とすれば、睡眠時間は30年弱になる。だから、睡眠は大事だ、睡眠は健康な生活のために大事だといわれる。心理学に夢の研究は多いが、それは、夢を、起きているときの生活の改善のために役立てるためであって、夢そのものの過ごしかたではない。「現実」は、なかかな思い通りにはならないものだが、夢が明晰夢になれば、30年の睡眠人生は、もっと豊かなものになるだろう。



蛭川立彼岸の時間ー〈意識〉の人類学』の一部を引用して加筆。
彼岸の時間―“意識”の人類学

彼岸の時間―“意識”の人類学

  • 作者:蛭川 立
  • 発売日: 2009/05/20
  • メディア: 単行本


CE2016/11/08 JST 作成
CE2020/10/09 JST 更新
蛭川立