輪廻と解脱

輪廻の観念

地球上のほとんどすべての伝統社会が、死後の霊魂という観念を持つ。転生、つまり霊魂がふたたび肉体に宿って現世に戻ってくるという観念を持つ社会も世界各地に存在する。

古代インド哲学とそこから派生した仏教思想を特徴づけるのが輪廻転生の観念である。釈迦は実用主義の立場に立ち、輪廻については沈黙して語らなかった(無記 aniccha)という説もあり、初期仏教の経典にもそのような記述もみられるが、現実には仏教文化圏では輪廻の観念は一般的である。

転生の観念を持つ文化はインド・仏教文化圏以外にも広く見られるが、とくにインド的転生観が独自なのは以下の二点である。

  1. 輪廻転生と因果応報の観念が分かちがたく結びついている。つまり現在の行い(karman)の善悪に対する報いが、来世以降まで持ち越されると考えられている。
  2. 永遠に続く輪廻をむしろ良くない状態と考え、そこから脱出(解脱)することを良しとする。

(1)は他文化、たとえば古代ギリシアにもあったが、そこではより高い世界に転生することが目標とされており、輪廻のサイクル自体から脱出するという発想はない。

仏教思想では、魂が遍歴する世界を六道、つまり

 地獄・餓鬼・畜生・[阿]修羅・人間・天[上]

の6個に分類することがあるが、最高の世界である天に行ってもなお不十分で、輪廻の循環自体から抜け出す必要があると考えるところが徹底している。極楽往生について語る浄土教系の発想はイスラームなどの他宗教と似ているところもあるが、極楽は最終地点ではなく、さらにそこで修行を行い、解脱するのが目標とされる。

中有の観念

死後、新たな肉体を持って生まれ変わるまでの中間状態を、中陰、ないし中有(チュウウ)という。これを輪廻のサイクル全般に当てはめ、生と死の過程を生有(ショウウ)、本有(ホンヌ)、死有(シウ)、中有の4段階に分けることもある。

『マーンドゥキャ・ウパニシャッド』では、意識の状態を、覚醒、夢見、熟眠、および第四の状態、に分けるが、チベット仏教ではさらに覚醒、夢見、瞑想、死後の世界を3種類、合計6個の中有(バルドゥ)に分類する。ここでは輪廻の状態と意識の状態が同列に扱われている。そもそもインド思想においては、死後の世界も「現実」の世界も人間の意識が作り出しているもので、意識の状態が変われば世界の様相も変わるという発想が濃厚である。

チベット仏教の中有の考え方にもとづけば、通常の心理学では6個の中有(bardo)(意識状態)のうち、母胎から生まれて死ぬまでの意識状態しか扱っていないことになるが、それは心理学における一種の自文化中心主義(ethnocentrism)だともいえる。

夢の状態には夢の状態の心理学が必要になる。これは普通の心理学でもテーマにはなるが、夢の心理学においては、むしろその夢が「目覚めている」時の人生にどのように役立つかということが問題にされ、夢の世界そのものをどう生きるのかという発想にはなりにくい。というのも、現実は現実だが、夢は一種の幻覚だと考えられるからである。しかし、寝ているときも起きているときも中有であるとする考えからすれば、どちらも幻覚であって、そのことに気づかなければならない、ということになる。そして、それが幻覚であることは、夢を見ているときのほうが気づきやすい。また、夢の状態は死後の中有とも似ていると考えられるので、そこでこれは幻覚だと自覚することが瞑想的訓練となる。心理学では明晰夢の研究がこれに近い内容を扱っているが、とくに「超常的」な現象ではないのに、比較的最近まで超心理学の分野以外ではあまり問題にされてこなかった。

同じように、瞑想には瞑想の心理学が必要になるが、やはり通常の心理学ではあまり扱われない。寝ているときに夢を見たり、死んだりすることは生物学的な機能として自然に起こることだが、瞑想、それもある程度以上の深い瞑想状態は、意図的な訓練がなければ、そのような状態には入ることはできない。しかし近代社会ではそのような文化が存在しないか、近年になって注目されているとしても、それはたとえばリラクセーションや心理療法の方法というぐらいの意味づけしか持たない。

さらに、死の瞬間の中有ということになると、近代的な心理学では終末期の心のケアは問題にしても、「死後」は問題にしないのが普通である。というのも、当たり前のようだが、近代的な唯物論的身体観においては、死の瞬間に主観的な意識の流れは停止すると考えるからである。しかし、この分野は近年になって臨死体験の研究として注目されるようになった。臨死体験が死「後」の体験なのかどうかは意見が分かれるところだが、瀕死状態から生還した人のかなり多数がそのような主観的体験をするということ自体は事実で、しかもその内容は、光の体験など、仏教の文脈で語られていたことと似ていることが興味深い。

存在の本性から再生に向かう中有、そして再生するとなると「過去生退行催眠」や「前世の記憶」などの研究と関係してくる。もはや通常の心理学がほとんど扱わない領域で、トランスパーソナル心理学超心理学の扱う領域になる。しかし、やはり、少なくとも肉体を持って生きている人間がそのような過去を思い出す「かのような主観的体験をする」のもまた普通のことであり、それ自体は決して「超常的」な現象ではない。にもかかわらず、それが「超」心理学 parapsychology などの研究とされてしまうところには、やはり近代社会のコスモロジーによる(必ずしも「科学的」ではない)判断がはたらいている。

輪廻と解脱の象徴的理解

輪廻や解脱といった概念を文字どおりに受け取ると、肉体の死とともに霊魂というものが抜け出して霊界という別の場所に移動するといった、近代科学とは相容れない世界観になってしまう。しかし、近代科学の世界観に反するからといって、迷信として処理するのも誤りである。呪術=宗教的なコスモロジーは象徴的に理解されなければならない。輪廻や解脱の観念も、こうした象徴的なコスモロジーとして解釈することもできる。

病気の原因は前世のカルマであり、それを浄化すると称する詐欺などは、こうした世界観を文字どおりに信奉すること(信奉させられること)によって起こる。呪術・宗教的な言説は、当該文化の文脈の中でしか意味を持たない。そのような意味では、近代科学が「宗教」となっている社会では、従来の宗教は、困惑した人たちの弱みにつけ込むなど、歪んだ形になりやすい。社会一般と世界観を共有できないことで、余計に反社会的な集団を形成しやすくなっている。

宗教的世界観は、ルールに従ったスポーツに例えることができる。輪廻と解脱の概念を理解するには、ドッヂボールを考えてみると解りやすいだろう。

「死は肉体からの解放である」という奇妙な発想は、相手チームのメンバーに球を当てられてコートの外に出ることに対応する。「現世への執着が断ちきれずに、また転生してきてしまう」というのは、コートの外から相手チームのメンバーに球を当てて、またコートの中に戻ることに対応する。この繰り返しが、輪廻転生である。

コートの外に出たとき、相手に球を当てることをやめて、つまりそのまま競技をやめてしまっても、ルール違反ではない。これを、輪廻からの解脱と考えることができる。「死は解脱に至る最高の機会である」という所以である。もちろん、コートの中にいるときに、競技をやめてコートの外に出られないわけでもない。これはいわば「出家」から「即身成仏」(輪廻転生せずに、生きている状態で解脱すること)に至ることに対応する。

解脱というものを、このように解釈すれば、霊魂や霊界といった奇妙な実体概念を用いずに、象徴的に理解できる。つまり、我々は社会生活という「競技」の中で、しばしば互いに球をぶつけあうという状況に陥る。そこで、いったん競技から離れて、ルールの縛りというものが、自分たち自身が作り出したものだと知ることで、競技に加わるのも、加わらないのも自由だと知ることができる。

ただし、こうした発想が、しばしば厭世的なニヒリズムに陥りやすいのも事実である。人生や社会に意味と秩序を与えているのは、スポーツのような競技であり、そのルールである。それらを、本質的には意味を持たない幻想だと見なす発想には、物質的な現実社会に背を向けてしまうという側面もある。

古代インド哲学や、そこから派生した仏教やヒンドゥー教は、概して平和的な宗教であり、宗教紛争などへの関与は少ない。自己の内面の探求を重んじる反面、政治や社会への関心が希薄だからだということもできる。マックス・ヴェーバーは、インドの宗教意識を「現世否定」という視点から捉えようとしたが(→「ウェーバー「世界宗教の経済倫理」」)、その内向性は、儒教中華帝国を支え続けてきたことや、イスラームがその教義自体の中に法学の体系を含むことなどとは、対照的である。



記述の自己評価 ★★★☆☆(内容が広大多岐に渡っている一方で、細かい部分の議論が不足している。いくつかのページに分割してまとめなおす予定。)
2006/10/03 JST 作成
2019/11/07 JST 最終更新
蛭川立