科学と非科学の境界設定問題

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写真:クイーンズランド・パフォーミング・アート・センター/オーストラリア・ブリスベン

「科学」という日本語

まず最初に触れておかなければならないのは「科学」という日本語が何を意味しているのか、ということである。日本語の「科学」は、欧語の「知識(scientia, science, Wissenschaft)」の訳語であるが、全体としての知識である「哲学」に対して「個別科学」という意味でもある。

そして、日本語で「科学的」という言葉を使う場合にも、以下に挙げるような、複数のニュアンスが含まれているため、混同しないように注意する必要がある。

(A)唯物論的な立場
→これに対立するのは唯心論、観念論、あるいは物質と精神の二元論、さらには物質と精神と観念の三元論。

(B)実証主義的な立場
→これに対立するのは実在論。この場合、物質実在論である唯物論とも対立するので、実証主義という意味での「科学的」と、唯物論的という意味での「科学的」を混同すると、議論が混乱してしまう。

(C)機械論的な立場
→これに対立するのは生気論。

(D)還元主義的な立場
→これに対立するのは全体論。還元主義と全体論の中間的な立場としては、構造主義やシステム理論などがある。

(C)と(D)はさておき、(A)と(B)の混同は入り組んでいるので整理する必要がある。たとえば「幽霊」について、科学的な観点からして、存在するはずがない、幻覚に違いない、とするのが(A)の立場である。なぜなら(A)は、非物質的な実体の存在を認めないからである。(B)の立場では、もし幽霊が見えた(とくに二人以上の人間に同じものが見えた)場合には、幽霊が「実在」するかどうかという問題は保留して、あるいは問うても意味がないこととして退けて、知覚された幽霊の性質について、その研究を進めることができる。

(A)と(B)の混同を避けるための、もっとも簡単な方法は、「科学的」という言葉を使わないことであろう。しかし、もし使うのであれば、どちらの意味で使っているかを明確にする必要がある。

科学史的には、おおよそ古典力学的世界観にもとづく近代科学は、比較的無自覚に(A)の唯物論という立場に依拠してきたが、相対性理論量子力学以降の現代科学は、むしろ(B)の立場から科学的な研究が進められるようになってきた。

だから現代科学の文脈で、あえて「科学的」という言葉を使うのであれば、(B)の立場であることを明示する必要があるだろう。

科学と非科学の境界設定

ある体系が「科学」であるのか、「科学」ではないのか、その境界は設定できるのか、どのように線引きができるのか、というのが「境界設定問題/線引き問題(demarcation problem)」である。

これは、科学とは何かという定義にも大きく依存するものであり、あまり厳密に線を引くことはできないし、引いてはいけない、ともいえる。有害な疑似科学は問題だが、有益な空想を妨げる根拠はないからである。つまるところ極論は「何でもあり(anythinig goes)[*1]」なのだが、それでも「科学的」であるかどうかの基準を挙げるとすれば、おおよそ、以下の二点に集約されるであろう。

(1)理論が無矛盾であること
(2)理論が反証可能であること

の二点が挙げられる。さらに社会的、応用的な観点からすれば、

(3)理論が有用である(または有害ではない)こと

という基準も加わる。

理論の無矛盾性と反証可能性

科学理論の用件について、たとえばクーンは「よき科学理論」の条件として「精確性(accuracy)」「無矛盾性(consistency)」「広範囲性(scope)」「単純性(simplicity)」「多産性(fruitfulness)」の5項目を挙げている[*2]

このうちで、無矛盾性が上記の(1)に対応し、「精緻性」が上記の(2)に対応する。おおよそ、ポパーの「反証可能性(falsifiability)」と同義である。

(1)から派生する要請として、反証不能でかつ無矛盾な理論であれば、より単純であるほうがすぐれた理論であり、またひとつの理論はより多くの既知の現象を説明し、かつまたより多くの未知の現象を予測するものであるほうがよい、ということが挙げられる。これはクーンの「単純性」「広範囲性」「多産性」に対応する。

たとえば、メカニズムが不明な現象、たとえば「テレパシー」という現象を説明するために「第五の相互作用(力、場)」、あるいは精神現象に特有の相互作用を仮定するとすれば、四つの物理的相互作用ですべてが説明できるという既存の物理学理論に対して、それがより複雑になってしまうという点に困難がある。逆に、現代の物理学は、すでに電磁気力、強い相互作用強い相互作用を一つの相互作用の別側面であるという統一理論を作り上げており、現在、重力を含むすべての相互作用を統一しようという方向で研究が進められている。これは「単純性」という点で、健全な方向性だといえる。

また、「広範囲性」(これは「保守性」と言い換えたほうがわかりやすいかもしれない)と「多産性」について、「テレパシー」という現象を説明するのに「第五の相互作用」を導入しても、それが「テレパシー」だけではなく、既存の、四つの力によって説明される現象群よりも、より広い現象群を説明できなければ「広範囲性」の基準を満たさないし、また「テレパシー」以外の新しい現象が観測されることを予測しなければ「多産性」を満たさない。もしそれができないのであれば、「テレパシー」は既存の四つの相互作用の範囲内(おそらくは電磁気力)によって説明されるべきであり、あるいはその実験的証拠自体を強く疑う必要がある。

理論の社会的側面

上記の(1)と(2)は科学哲学的な要請であったが、(3)はむしろ科学社会学的な要請である。

社会的な文脈における科学のあるべき姿としては、マートンの「マートン・ノルム(Mertonian norms)」がある[*3]。「普遍主義(universalism)」「公有性(communism)」「利害の超越(disinterestedness)」および「系統的な懐疑主義(organized scepticism)」である。これらは、たんに社会的というよりは、さらに強い政治的な含意があり、宗教的なドグマや政治的なイデオロギーが強い力を持っていない現代の日本の文脈では、あまり問題にはならない。

非科学・未科学疑似科学

「科学」と「科学ではないもの」の「境界設定」については、「科学ではないもの」一般(非科学)と「疑似科学」が混同されているきらいがある。「非科学」一般と「疑似科学」は区別されなければならない。ここで問題になる「疑似科学」とは、「科学的であろう」とする「非科学」である。しかも、それらすべてが「疑似科学」なのかというと、そうではない。「科学的であろう」とする「非科学」のうち、論理的な一貫性を欠いていたり、すでに反証されていたりするものにかぎって、それは「疑似科学(pseudoscience)」と呼ばれるべきである。

理論や実験が不十分であるがゆえに、今後まだ科学として発展しうる可能性のある体系は「未科学(protoscience)」として別個に扱われなければならない。新しい科学は必ず「未科学」の領域から発展してくるが、「疑似科学」にはその可能性はない。「現在の科学ですべてが説明されたわけではない」という、しばし目にする主張は当然だが、それは「未科学」の可能性を保証するものであり、「疑似科学」を正当化するものではない。

科学的とされる基準を満たさない体系を仮に「非科学」と呼ぶことにする。しかしこの非科学にも「科学的であろう」とする非科学と、「科学的であろう」とはしない非科学がある。芸術や宗教などの文化的活動の領域には「科学的であろう」としていない「非科学」の体系はいくらでも見いだすことができる。世界が神によって創造されたとする「創造論(creationism)」は、聖書だけではなく世界各地の創世神話にあるもので、それを純粋に宗教や文学としてとらえるならば「非科学」だが、神による創造が「科学的事実である」と主張する「創造科学(creation science)」は「科学的であろう」としている理論であり、それがまだ反証されていないとすれば「未科学」になり、反証されているとすれば「疑似科学」になる。

  • 科学
  • 非科学
    • 科学的であろうとする非科学
    • 科学的であろうとしない非科学

しかし疑似科学だからといって、ただちに有害だということはできない。一般に疑似科学とみなされる占星術も、それが過去数千年における統計学の産物であると主張した時点で「科学的であろう」としていることになり、たしかに「疑似科学」になってしまうのだが、たとえば星の配置、布置(Konstellation)を一種の投影法として、カウンセリングのように利用するのであれば「科学的であろう」としていることにはならず、それが役に立っているのであれば「疑似科学」ではなく、有益な「非科学」だということになるだろう。

なお「科学的であろう」という姿勢は、主観的なものであり、それを客観的に判定するのは難しいが、おおよその基準を挙げることはできる。理論の内部に「波動」や「イオン」などの科学用語を含んでいたり、根拠として統計的な数字(のようなもの)を挙げたりすること、などである。

また、科学用語の明らかな誤用もある。「低炭素」という語句が使用される場合、およそ生物の身体が炭素化合物からできていることが理解されていない可能性が高く、「反核」といったときに、それが原子核に反対するということであれば、意味不明である。核兵器に反対するのか、原子力の「平和利用」に反対するかの区別も不明である。

科学用語の濫用の範囲も曖昧で、たとえば「あの人とは波長が合わない」といったときの「波長」は、慣用的な表現であって、具体的に特定の媒質を伝わる波動のことを言っているのではない。同様に「セラピストとクライアントの間には量子的なエンタングルメントが起こっている」といっても、それが慣用的な比喩表現であれば、疑似科学として問題になることはない。この場合「波長」という言葉がすっかり慣用的なものになり、また直感的にもイメージしやすいのに対し、「エンタングルメント」という言葉はまだ専門分野外では聞き慣れない、最先端の科学という雰囲気をまとった言葉であり、また直感的な理解が難しいぶんだけ、神秘的に捉えられやすい、という問題はあるだろう。同じように直感的理解を阻む現代物理学でも「相対性理論は間違っている」という奇妙な言説が横行する一方で、量子力学用語は積極的に濫用されるきらいがある。(私も、過去の言動を自省しなければならない。)

疑似科学の有害性

社会的な有害性がすぐに表れやすいのは疑似医学の分野だが、しかし伝統医療も含めて疑似医学の多くは高々プラセボであり、無害な物が多いのも事実である。多くの問題は副次的なところで起こる。たとえば、費用が高額になってしまうという問題は、保険が適用されないことが多いがゆえに、患者の側に重い負担となる。また、特定の療法を用いることではなく、他の療法を使わないことによる被害も副次的なものである。たとえば「ホメオパシーで死者が出た」といった語りには注意する必要がある。(現在主流となっている)ほとんど存在しないほど希釈した成分を染みこませた砂糖玉を摂取しても健康被害は生じようがない。そうではなく、他の薬を摂取しないことで副次的な健康被害が生じる可能性があるということであり、問題はホメオパシー自身にあるのではなく、通常の医薬品に対する不信という信念体系のほうにある。問われなければならないのは、薬物療法を中心とした近代医学に対する不信感が生じる仕組みのほうであろう。

あるいは、効かないサプリメントを効く薬と称して売ることよりも、効く薬を効かないサプリメントと同列に売ることのほうが問題になることもある。例えば今の日本ではコンビニや家電量販店でも買えてしまうセントジョーンズワートセイヨウオトギリソウ)は標準的な抗うつ薬であるSSRIと同等の作用と副作用を持っており、こうしたものを医師の処方箋なしに売ることができるほうが問題である。

疑似科学と政治的権力・宗教的権威

宗教的権威や政治的権力が科学的言説に介入してくることが少ないのは、現代日本社会の特徴だと言える。アメリカでは創造科学やインテリジェント・デザイン説などが政治的な議論にさえなっている状況からすると、大宗教の権威がほとんど存在しない日本で疑似科学と呼ばれているものが起こしている問題は、幸い、それほど深刻ではない。日本では暗黙のうちに多数行われている妊娠中絶は、キリスト教文化圏では殺人とみなされるが、日本では、たとえば仏教や神道がそうした議論を提起するような道徳的な権威を持っていない。

水に綺麗な言葉をかけると結晶も綺麗な形になる、という主張が道徳教育の現場に取り入れられたことが問題視された。たしかに、道徳の根拠を「科学」に求めようとするのは誤った科学主義である。しかし、綺麗な言葉を使おうという主張自体は穏当なものである。教育現場に限れば、例えば国語の教科書に、倒錯した思想を持ち自殺した作家の文章を載せるほうが、青少年の健全育成において、はるかに有害であるとは言えまいか[*4]。自殺の肯定または美化も、大宗教による道徳的な歯止めの存在しない日本社会に内在する難題だともいえる。これからのグローバル化する世界では、イスラーム原理主義疑似科学とでも呼ぶべきものが影響力を持ってくるだろうが、幸か不幸か、移民の受け入れに消極的な日本社会では、当面、大きな問題にはならないだろう。

ただし、日本にはあまり宗教的権威は存在しないとはいえ、たとえば仏教式の葬儀の場合、葬儀費用以外に数十万円以上の戒名料を支払うという慣習がある。霊感商法のたぐいとは違って、高額を支払えば病気が治るといった疑似医学的説明がなされることはないにしても、人の不幸にさいして根拠のよくわからない支払いを要求する点では、戒名と霊感商法はそれほど変わるものではない。仏教という思想を否定するつもりはないが、地域社会に貢献し、あるいは悩める人たちの心を癒やすのが僧侶という職業がなすべきことであろう。

政治権力を後ろ盾にした疑似科学としては、ナチス・ドイツユダヤ人差別や、旧ソ連のルイセンコ学説などがある。しかし、日本では独裁的な政府が科学的言説に介入してくるような状況は起こりにくい。むしろ日本社会で疑似科学を考えるにあたっては、偏った信念が議論を経ずに、社会の雰囲気のように無意識的に共有されてしまうことに注意しなければならない。

たとえば、アルコールの有害性についてはキリスト教も仏教もイスラームも指摘しているところであり、とくにプロテスタントの文化圏では禁酒主義が一定の社会的勢力になっているが、日本の仏教は禁酒という戒律には無頓着である。

「麻薬」や「薬物」といった、一見、科学的なようで、科学的な根拠のない概念が流布する一方で、酒やタバコは「麻薬」のような危険なものではない[*5]という信念がダブルスタンダードとして存在し、それらを専売にして税金を取り、犠牲者を過小評価するのは、深刻な疑似医学である。しかし、酒やタバコは覚醒剤大麻よりも安全性が高いという信念は、政治的なプロパガンダによって意識的に植え付けられているわけではなく、むしろ常識論として漠然と共有されている[*6]

似たような常識論としては、自動車の危険性がある。あらゆる技術は利便性とリスクのバランスの上に成り立っている。原子力発電所は事故を起こすから危険だという主張に対して、政府がや電力会社がそれを安全だというのは、意識的な情報操作だといえるかもしれない。しかし、自動車は交通事故を起こすから危険だという事実については、政府や自動車会社が安全だという反論をすることは少ない。そもそも素人が自動車を運転することの危険性についての社会的認識が希薄だからである。自家用車は二酸化炭素排出量が多いので公共交通機関の使用を促進しようという主張には、それ以前の、交通事故のリスクについての議論が欠けていることが多い[*7]。明治時代に最初に鉄道が敷かれたときには、蒸気機関車反対運動が起こったというが[*8]、新しい乗り物のリスクに対する拒絶意識は、やがて消えていった。

政治的権力や宗教的権威よりも、「世間」の雰囲気のようなものが人々の信念体系に漠然と影響を与える日本社会では、こうした「常識」の中に無意識に潜む疑似科学のほうに、より注意する必要がある。

「文明」の中の神話的思考

無意識の思考パターンに着目すると、「疑似科学」とされるものの背景に、しばしば「自然への回帰」という共通のイデオロギーが存在していることがわかる。構造主義的人類学は−「未開人」であれ「文明人」であれ−、人間の思考の背景に「自然/文化」というディジタルな双分法が存在することを明らかにしてきた。「未開」社会において、その神話的思考は「自然」から「文化」への移行、という構造を持つが、「文明」社会においては、「文化」から「自然」への回帰という、揺れ戻しが起こっている。じっさい、「文明」社会において、自然への回帰を望んでいるのは、決して無知蒙昧な人々ではない。むしろ、中産階級的で、教育水準が高く、また社会的関心の高い、ある程度物質的に恵まれた人たちが、行き過ぎた「文化」という弊害から「自然」を取り戻そうとしているのである。

だから、個々の「疑似科学」を「モグラ叩き」のように批判することは、問題を解決するのに効率のよい方法ではないだろう。そうではなく、「文明人」の中でも無意識のうちに動き続けている神話的思考の様相を明らかにすることのほうが、「疑似科学」の有害な副作用を「一網打尽」にすることができるだろう。(詳細は「文明社会における神話的思考」を参照されたい。)

疑似科学志向は、しばしば、いわゆる陰謀論とも結びつきやすい。陰謀論信奉については、性別や教育水準とは無関係だということが知られている。パーソナリティ障害としては妄想性(paranoid)パーソナリティ障害と相関関係があり、またパーソナリティ理論のビッグファイブでは開放性(Openness)と相関するということが知られている。疑似科学信奉は、低い教育水準や、パラノイアなどの病的な要素だけでは説明できない。物事を通念とは違った角度から捉えようとする、「意識の高い」姿勢と結びつくということ、陰謀論の背景には、社会を良くしようとする積極的な動機があることは考慮されなければならない。

一見、「自然回帰」のイデオロギーとは関係のない「疑似科学」も存在する。血液型とパーソナリティとが関連するという観念がその一例である。こうした観念体系をエビデンスによって反証することは徒労だろう。しかし、これを「今日のトーテミズム」として捉えるとき、こうした観念に対しても、構造人類学的な分析が有効であることがわかる。(詳細は「血液型トーテミズムと婚姻規則」を参照されたい。)



CE2015/05/10 JST 作成
CE2021/06/24 JST 最終更新
蛭川立

*1:ファイヤアーベント, P. K. 村上陽一郎・渡辺 博(訳)(1981).『方法への挑戦―科学的創造と知のアナーキズム―新曜社, 17-18. (Feyerabend, P. K. (1975). Against Method: Outline of an Anarchistic Theory of Knowledge. New Left Books.

*2:クーン, T. S. 安孫子誠也・佐野正博(訳)(1992).『本質的緊張(第二巻)―科学における伝統と革新―』みすず書房, 417. (Kuhn, T. S. (1977). The Essential Tension: Selected Studies in Scientific Tradition and Change. University of Chicago Press.

*3:マートン, R. K. 森東吾・森好夫・金沢実・中島竜太郎(訳)(1961).『社会理論と社会構造』みすず書房. (Merton, R. K. (1949). Social Theory and Social Structure: Toward the Codification of Theory and Research. Free Press.)

*4:ただし、私個人は、倒錯の美学というものはありうる、と思う。しかし、それは「18歳未満禁止」であり、高校以下の教科書に載せるようなものではない。そうであればこそ(とくに文学系の)大学教育というものが必要な所以でもある。

*5:向精神薬の実際の有害性については、有害性の種類にもよるので、単純な評価は難しいが、たとえば自己への害と他者への害を分けて評価した研究(Nutt, 2010)が参考になる。(この研究でも有益性については論じられていない。)有害性の度合いは、おおよそ、アルコール>ヘロイン>覚醒剤>コカイン>タバコ>大麻ベンゾジアゼピンサイケデリックス、といったところであり、これは日本における危険な「麻薬」というイメージや、実際の合法性とはかなり異なっている。

*6:「麻薬」についての人類学的分析は「『麻薬』という民俗分類」にまとめておいた。

*7:例えば、国土交通省 (2007).「進行する地球温暖化とわたしたちのくらし(3)公共交通機関の利用促進による二酸化炭素排出量削減に向けた課題」『平成19年度 国土交通白書』(2022/01/08 JST 最終閲覧)

*8:要出典