コカ・コーラの秘密のレシピ
アンデスのケチュア人は「嘘をつくな、盗むな、怠けるな(ama sua, ama llulla, ama quella)」を挨拶の言葉として使うほどに謹厳実直な人々であった。彼らの心性を象徴する薬草がコカであり(→「勤勉と強迫の文化」)西洋人がそこからコカインを抽出したのは1885年であった。
文庫版フロイト著作集におさめられている「コカについて」。ちなみにこの時代には男性が肖像写真の中でタバコを手にするのは一般的な表現様式であって、フロイトだけが特にニコチンや口唇性愛に依存していたわけではない。
「愛することと働くこと(Lieben und Arbeiten)」を人生の指針とした、謹厳実直な医学者であったフロイトはその新薬コカインに魅せられ、初期の論考である「コカについて」(1884年)の中でその有効性、とくにモルヒネ中毒の治療薬としての可能性を力説した。
フレンチ・ワイン・コカの広告[*1]。コカの葉が描かれている。
自身もモルヒネ依存に苦しめられていたアメリカの薬剤師ジョン・ペンバートンは、ワインにコカの葉とコーラの実のエキスを入れた「フレンチ・ワイン・コカ」を開発し、1885年に世に問うた。これが、コカ・コーラの前身である。しかし、エチルアルコールもまたモルヒネと同様の抑制剤であり、強い依存性がある。翌1886年、全米に禁酒運動が広がる中で、ワインの代わりに炭酸水をベースにした「コカ・コーラ」が発売される。
コカ・コーラの広告(1891年)「・・・コカの葉とコラの実が含有せる神経刺激薬・・・美味のみならず・・・頭痛、神経痛、臓躁病[*2]、欝病等、凡ゆる神経の病に著効あり・・・」[*3][*4]
その後、コカインの有害な副作用が報告されるようになり、フロイトはコカイン研究を中止する。1903年、コカ・コーラのレシピからコカインが消える。精神分析の創始者であるフロイトが、あろうことにコカインの研究をしていたなどということは「抑圧」され「忘却」される必要があったのかもしれないが[*5]、といっても、精神分析にも有害な副作用がないわけではない[*6]。
リチウムで痩せる!
アメリカで禁酒法が施行されたのが1920〜1933年である。この時代には、エチルアルコールの陶酔にとって代わる、より覚醒作用の強い飲料の開発が同時並行的に進んだ。7-Upの登場も禁酒法の施行と同じ1920年である。リチウム入りレモネードという冒険的な薬用飲料であった。
7-Upの広告(1935年)[*7]
リチウムは過量服薬による中毒の危険が高い。そのことが問題視され、7-Upのレシピからリチウムが消えたのが1948年である。
奇しくもその翌年、1949年、オーストラリアの軍医ケードが偶然にもリチウムの気分安定作用を発見するというセレンディピティに恵まれる[*8]。爾来リチウムは(正確な作用機序は不明なまま)躁鬱病=双極性障害に罹患した患者が生涯にわたって飲み続ける薬として使われている。
数十年にわたってリチウムを服用し続けて生涯を終えた患者たちの脳を調べると、ニューロンの細胞死が抑制されていることがわかってきている[*9]。健常者が服用しても、認知症の予防効果があるという研究[*10]も進んでいる。
働くことを愛すること
同じころ、脱亜入欧による近代化を目指していた日本では、1888年に漢方薬であった麻黄の有効成分エフェドリンからメタアンフェタミンが合成される。
このメタアンフェタミンが大日本製薬から「ヒロポン(Philopon)」という商品名で一般向けに発売されるようになったのは1941年、太平洋戦争開戦の年である。
「ヒロポン」とは、ギリシア語のphilo(愛する)とponos(働く)の合成語でもあり、「疲労がポンととれる」という標語との掛詞であったとも言い伝えられている。
「新発賣 最新 除倦覺醒剤 ヒロポン錠」『航空朝日』1942年9月号の広告。まだ軍事利用への言及はない。
「一億戦闘配置へ!」『アサヒグラフ』1944年3月1日号に掲載されたヒロポンの広告。戦局の悪化を如実に反映している。
1945年の敗戦後、日本は撃滅すべき敵を失い、不要になったヒロポンは市井に流出し、大規模な乱用を惹き起こすことになる。その後「覚醒剤」は反社会的な乱用薬物の代名詞になったが、それは働くことを愛する近代日本人の心性に合致したものであり、軍国主義の時代にはむしろ社会的に推奨される薬物であったのである。
覚醒剤というといかにも怖ろしい薬物というイメージがあるが、じっさいには「ヒロポン」は現在でも過眠症やうつ病の治療薬として使われ続けている。精神刺激薬としてのアンフェタミン類の安全性は、コカインとメチルフェニデートの中間であり、向精神薬全体では酒やタバコと同程度である。
コカ・コーラ社が日本人を過労と不眠から救う?
19世紀から20世紀に興奮飲料の製造・販売に取り組んできたコカ・コーラ社は、2016年になって、鎮静・催眠作用のある飲料「グラソー スリープウォーター」を開発し、まずは日本市場での販売を開始した。
Sleep Waterの広告。「日本の労働文化が深夜に至る長時間労働を良しとしており、人々が電車内で変な格好をして眠っていることはよく知られているが、コカ・コーラが日本人に対して良質な睡眠を提供する飲料を売り出すのは、驚くことではない[*12](蛭川による抄訳)」
欧米人から見ると、日本の満員電車や、車内で酔って寝ている人などが、とても不思議に見えるらしい。そもそも、電車の中で寝ていられるのは、スリなどにあわない、治安の良い社会だからできることでもある。
スリープウォーターの有効成分はテアニン(および少量のカモミール)であるが、近年、テアニンが不眠だけでなく、不安やうつに対しても有効であるという研究が進んでいる*13]。
コカ・コーラからカンナビス・コーラへ?
また西洋世界では、タバコに対する風当たりが強まってきたいっぽうで、大麻が非犯罪化、そして合法化へと向かいつつある。嗜好品としての用途はさておくとしても、医療用大麻の研究・実用化が進んでいるのは事実である。
この流れに乗って、コカ・コーラ社は、抗けいれん作用などが期待されるカンナビノイド(大麻の有効成分)、CBD (cannabidiol:カンナビジオール)を配合した飲料の開発を進めているとも言われている。この件について、今のところコカ・コーラ社は、根拠のない憶測にすぎないという公式見解を発表するにとどまっている[*14]。
追記:日本のChill Out
この記事を書いたのは2019年だったが、じつは2016年に、日本のコカコーラの子会社が「CHILL OUT」という、テアニンとGABAにヘンプシード(大麻の種子)を添加した飲料を発売していた。
www.youtube.com
チルアウトの広告動画。興奮剤であるカフェインと抑制剤であるアルコールに対する、第三の選択肢としての役割を強調している。
チルアウトが自販機やコンビニで売られるようになったのは、ごく最近、2022年ぐらいからである。
明治大学和泉校舎第一校舎の入り口の自販機で販売されているチルアウトと、横に貼られている大麻の乱用防止啓発ポスター
日本では大麻は危険な違法薬物として認識されているいっぽうで、そこから抽出されたCBDなどのカンナビノイドが合法的なリラクゼーション用の健康食品として流通するようになっており、法的な矛盾とイメージの乖離が起こっている。
CE2019/05/15 JST 作成
CE2024/05/15 JST 最終更新
蛭川立
*1:Flores, G. (2015). COCA-COLA’S FIVE DARKEST SECRETS. NoFakeNews.net.(2019/05/14 JST 最終閲覧)
*2:「臓躁」は漢代の医書『金匱要略』にある疾患名であるが、これを「hysteria」の和訳としたのは幼少期より漢籍に親しんでいた呉秀三である。
呉秀三 (2002).『精神病学集要 (上) (精神医学古典叢書新装版) 』創造出版.
呉秀三 (2003).『精神病学集要 (中) (精神医学古典叢書新装版) 』創造出版.
呉秀三 (2003).『精神病学集要 (下) (精神医学古典叢書新装版) 』創造出版.
*3:The Atlanta Constitution (Atlanta, Georgia) – June 12, 1891
*4:Price, N. J. Cocaine-laced Coca-Cola introduced (1886). Click Americana.(2019/05/18 JST 最終閲覧)
*5:上の写真はペーパーバック版のフロイト全集だが、ハードカバー版のフロイト全集(和訳は岩波書店から出ている)にはコカについての研究は載せられていない。
*6:アイゼンク, H. J. 宮内勝・中野明徳・藤山直樹・小沢道雄・中込和幸・金生由起子・海老沢尚・岩波明(訳)(1998). 『精神分析に別れを告げよう―フロイト帝国の衰退と没落―』批評社. (Eysenck, H. J. (1985). Decline and Fall of the Freudian Empire. Viking Press.)
*7:7-Up, with Lithium! – paradise regain'd
*8:Cade, J. F. J. (1949). Lithium salts in the treatment of psychotic excitement. The Medical Journal of Australia, 2, 349-352.
*9:要出典
*10:要出典
*11:Rational scale to assess the harm of drugs in Wikimedia Commons.(2019/06/02 JST 最終閲覧)
*12:McGee, O. (2016). New “Sleep Water” from Coca Cola Japan promises to help you drift off, wake up refreshed. SoraNews24.(2019/05/18 JST 最終閲覧)
*13:功刀浩・太田深秀・若林千里・秀瀬真輔・小澤隼人・大久保勉 (2016). 「緑茶成分テアニンの向精神作用について」『日本生物学的精神医学会誌』27, 177-181.
*14:The Coca-Cola Company (2018). Statement on Speculation Regarding Coca-Cola’s Interest in CBD Beverages.(2019/06/05 JST 最終閲覧)